赤毛のアン (Anne of Green Gables)

 

今年3月から約半年間にわたり東京MXで放送された『赤毛のアン』――1979年に「世界名作劇場」枠で放送されていたTVアニメの再放送――実は今回、初めて観ました。毎週月曜欠かさず観ていましたが、毎週感動していました。これを演出した人は、史上稀に見る芸術家だと思います。高畑勲。彼はジブリ設立前にすでに成し遂げていたんだと知りました。

 

『赤毛のアン』は、孤児院からマシュウ・マリラの老兄妹の元に引き取られたアンの5年間の成長を追った物語です。まず驚くべきは、アンがグリーンゲイブルズで暮らすことが決まるまでの1日の描写に、6話分の時間を費やしている点です。1回分の放送時間を25分とすれば、25×6=150分です。普通の映画の上映時間を軽く超えてしまう。本格的な物語が始まるまでのプロローグに、映画1本に収まりきらないほど豊富な時間を充てているわけです。

 

また、現実の視聴時間を考えてみても、これがやはり異常だということにすぐ気が付きます。6話分なので、1ヶ月半近くです。アンが孤児院からグリーンゲイブルズにやって来て、1泊し、ここで暮らせると知らされるまでの丸1日を、約45日の長きにわたって描いてゆく(ちなみに今回の再放送では、2話ずつ放映していました、それでも3週間です)。視聴者を飽きさせずに、じっくり対象を描き抜く驚異的な粘り強さと演出力です。

 

賞讃すべき箇所は枚挙に暇がないのですが、凡庸な演出家なら凡庸に描いてしまうようなありふれたシーンを、高畑勲は登場人物から少し距離を取って描き、実に滋味深いシーンに仕上げます。たとえば、アンが親友のダイアナについてマリラに話して聞かせるシーン。ダイアナが物語を書くと、どう振る舞わせたらいいか分からない登場人物はすぐ殺してしまう、とアンは言います。観ているほうは思わず笑ってしまうエピソードなのに、アンはその面白さに気づいていない。そしてマリラは呆れて口をぽかんと開け、一言も発しない。

 

あるいは、次のシーン。馬車の中でアンが友人たちに「宝石やお金よりも大切なものがある」と心情を吐露します。台詞の内容自体は特筆すべきものではありませんが、彼女の台詞を聞いている少女たちの反応が興味深い。じっと黙ってアンを見つめるのです。肯定も否定もしない、長い間。

 

のちに『おもひでぽろぽろ』で高畑勲はこの手法を再活用しています。映画の最後に映し出される、主人公のタエ子(小学5年生)の顔のアップ。27歳の(現在の)タエ子の結婚が決まり、映画は微笑ましいハッピーエンドを迎えます。しかし、小学5年生のタエ子がこちらに投げかける何ともいえない眼差しに、ぼくらは胸を締め付けられる。大人になること、過去と決着をつけること、それは過去から時間的にも心理的にも遠ざかることです。成長し、たとえ幸福な人生が開けるのだとしても、それはやっぱり寂しいことなのではないか? 少女の表情は、ぼくには寂しく見えました。

 

圧巻は物語終盤、マリラのアンに対する愛情が初めてはっきり表白されるシーンです。1年間の予定で家から離れ、クィーン学院で勉強しているアンは、大学の奨学金を得ようと秘かに野心を燃やします。が、大学に行ってグリーンゲイブルズをさらに4年も留守にすることに引け目を感じ、マリラとマシュウには言い出せない。そのままクィーン学院で勉強を続けます。しかし、二人はそれを察している。

 

マリラの相談相手のリンド夫人が訪ねてきて、アンを大学に行かせることはない、と意見を言われたとき、マリラはこう返します。アンは神から授けられた子なんだ、と。あの子の自由にさせてあげたい。養子にしていないのもそれが理由なんだ、自分たちの都合であの子を縛りたくないんだ、と。

 

マシュウは初めからアンに対し傍目も気にせず存分な愛を注いでいましたが、マリラは態度で示しこそすれ、口には出しませんでした。本当の母のように厳しく、温かく、躾けてきました。その堅い口がようやく、物語の終盤になって決壊する。これは「感動」と言うだけではまったく足りない。適当な日本語が見つからない。語彙の何たる貧困、何たる欠乏! マリラの告白を聞いた途端、時間が一瞬凝固し、それから樹液のようにゆっくり、星のめぐるように悠大に流れ、胸の奥深くが灼けるように熱くなりました。

 

物語の最終盤で、アンにどっと不幸が襲いかかりますが、作品は静かな光を湛えながら終わります。ぼくはTVアニメ『CLANNAD』を思い出しました。そこでは、主人公の朋也にやはり不幸が重ねて襲いかかります。しかし、奇蹟によって救われる。その奇蹟は、第1話からくり返し張られていた伏線を回収した結果なので、決して予定調和的なものではなく、むしろ作品としての完成度の高さを示しています。ただ、個人的には、それでも生きてゆく朋也の姿が見たかった。生きる目的をすべて略奪された後に生きる姿を見てみたかった。『赤毛のアン』で示されたのが、まさにそのような生きる姿でした。

 

人生は生きるに値する。宮崎駿がよく口にする言葉ですが、高畑勲の演出した『赤毛のアン』の中にこそ、ぼくはその言葉の真実を見たように思います。