更新情報/ブログ

2024年

3月

01日

友人のゲーム

 

最近、友人がゲームを2つ作ったので、やってみました。

 

其の1)『脱獄!モンスター工場』

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2023年

8月

07日

「崎」と「﨑」、あるいは「青が消える」其之二

村上春樹の小説に「青が消える」という短篇があります。1999年の大晦日の夜に、とつぜん青が消えてしまう。そのことに「僕」はすぐ気づくが、他の人たちはまったく気づかず、いつもどおりの生活を送っている――。そんな話です。

 

宮「崎」駿が宮「﨑」駿に変わっても、そのことに気づかない人たち。または、変わったことに気づいても不思議に思わず、まるで昨日までずっとそうだったかのように受け入れてしまう人たち。そういう世間に対する違和感が、今回の「其之二」のテーマです。

 

2022年、ジョン・ケアード演出の舞台『千と千尋の神隠し』が日本で上演されました。ポスターには、「原作:宮﨑 駿」と明記されています。

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2023年

8月

04日

Twitter

Twitterはずっとオワコンだと思っていて、イーロン・マスクの会社になってからは一層その感が強いのですが、いろいろ思うこともあり、先日、このサイト用のTwitterアカウントを作り、先程、トップページに埋め込みました。今のところ100%アニメーションのことしかtweetしてませんが。

 

試しにやっているところなので、放置することになるかもしれないし、コンスタントに書き込みつづけるかもしれません。

2023年

7月

28日

「崎」と「﨑」、あるいは「青が消える」其之一

宮「崎」駿と宮「﨑」駿。異なる表記について、2018年から強い違和感を抱いてきました。自分のこの違和感の正体は、2つに大別できます。1つ目は、苗字がなぜ「﨑」と表記されるようになったのか分からないこと。2つ目は、さまざまな場で説明もなく苗字が「﨑」と表記されることが増加し、それにもかかわらず、違和感を抱いている反応がほとんど見られないこと。1つ目は、宮崎駿の動機にかかわるもので、2つ目は、世間に対する違和感です。今回はまず1つ目について書くことにします。(2つ目については後日。)

 

1つ目について。7月26日に叶精二さんが詳しくtweetされていますので、事実関係についてぼくが付け加えることはあまりないのですが、一応、画像を挙げながら、自分なりに考えてみようと思います。

これまで宮崎駿は、自筆のサインでは「﨑」を多く使用してきました。

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2023年

7月

14日

はさみをもったオウム、あるいは君たちはどう生きるか Попугай с ножницами, или Как вам жить

 

『君たちはどう生きるか』を初日に観てきました。

監督は宮﨑駿。「崎」ではなく「﨑」。『未来少年コナン』以来、監督作はすべて「崎」表記でしたが、ジブリ美術館用短篇『毛虫のボロ』(2018年)で、初めて「﨑」を使用しています。したがって、今作は名義上は宮﨑駿監督の2作目、長篇アニメーション映画では初監督作品といえます。

(7月25日追記:7月25日の叶精二さんのtweetで、『くじらとり』(2001年)の最後に流れる自筆クレジットは「宮﨑はやお」であると指摘がありました。パンフレットで確認したところ、たしかにそうでした。一方、パンフレット最後のページに掲載されている、活字体のスタッフリストでは「崎」表記のまま。「崎」と「﨑」については後日書くつもりです。)

 

さて本題。『君たちはどう生きるか』の内容について、ここでは詳しく触れません。作中に出てきた包丁をもったインコのことを書いておこうと思います。

 

綺想がめくるめく展開する本作にあって、ひときわ目を惹くのが包丁をもったインコです。オウムと紛らわしいですが、「セキセイインコ」と言われていますので、どうやらインコのようです(ちなみにオウムとインコは同じオウム目の鳥)。

 

「オウムと紛らわしい」とわざわざ書いたのは、作中のインコが、かつて宮崎駿の描いた、はさみをもったオウムとよく似ているからです。(下の絵参照)

 

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2023年

7月

12日

その謎を解いてはいけない Don't solve that mystery

 

大滝瓶太『その謎を解いてはいけない』(実業之日本社)を読みました。

『コロニアルタイム』など、電子書籍ではすでに単著はありましたが、紙の本では初ですので、楽しみにしていました。

 

『その謎を解いてはいけない』は、ざっくり言えば、連作短篇ミステリです。ラノベ風の名前と容姿をもつ登場人物たちが殺人事件を解決する。と書くと、大滝さんの作風を知っている読者は意外と思うにちがいありません。というのも、彼の従来の小説はいわゆる純文学的要素が濃く、数学の知識をフィクショナルな想像力に接続させた、いわば「理数的幻想文学」とでも形容可能な作風だったからです(その理数性ゆえかSF=Science Fiction的と評されることもありました)。

 

ところが『その謎を解いてはいけない』の主人公は、名前が小鳥遊唯(たかなし・ゆい)で、片目が翠色の女子高生。そして探偵の助手。その探偵というのが、彼女に対抗して片目に緑のカラコンを入れ、暗黒院真実と名乗るコスプレ男。まるで『中二病でも恋がしたい!』から抜け出してきたようなキャラクターたちです。

 

最後まで集中して読めるかなと不安になりつつ読み進めましたが、結果的におもしろかったです。特に第二話からは、現代文学、数学、フィクションと現実の関係など、大滝さん「らしさ」も露頭し、いつものように熱心に読むことができました。

 

彼のこれまでの小説には、深刻で切実な重さのなかにも不真面目で卑猥な軽さがありました。本作で自己言及的に挙げられているピンチョンの小説に影響を受けているのでしょう、あらゆる要素のごった煮が彼にとっての小説のひとつの理想なのだと想像します。仮にそうだとすれば、『その謎を解いてはいけない』は、これまでの小説よりその理想に思いがけず一歩近づけている気がしました。軽さと重さのバランスがいい塩梅になっているかも、と。

 

また、作中で「間テクスト性(インターテクスチュアリティ)」と半ば冗談めかして語られているパクり問題は、ごった煮としての本作を最も特徴づけていると言えるかもしれません。『中二病でも恋がしたい!』、『犬神家の一族』、『容疑者Xの献身』といった有名どころから、大滝さんの自作小説まで、実にさまざまな事物の断片が点綴されています。たとえば第一話に出てくる佐清(すけきよ)は、もちろん『犬神家の一族』が元ネタですが、ご丁寧に白いゴムマスクまでかぶっています。明らかにギャグです。また、第三話で言及される四色問題は、本来数学の定理ですが、『容疑者Xの献身』で大きく取り上げられたことから、同じミステリというジャンルでこの定理を扱う以上、作者は読者が『容疑者Xの献身』を想起せずにはいられないことを承知しているはずです。

(ところで文芸誌「海豚」は「海燕」のもじり?)

 

最後に。本作では探偵と小説の類似について何度か言及されます。探偵は、18世紀以降に隆盛した合理主義の子であり、19世紀に産声を上げた探偵小説は、合理主義のいわば孫にあたります。19世紀は、合理主義精神の発達を背景に、ヨーロッパで広くリアリズム小説が流行した時代ですので、その出生からして探偵と小説に類似があるのは当然です。いや、正確を期せば、探偵とリアリズム小説に類似があるのは当然、と言うべきでしょう。たとえば探偵小説の流行は、観相学の発展と流行を抜きには考えられません。

 

本作では、探偵とリアリズム小説の関係を、解いてはいけない謎と書かれない言葉に、現代的にずらして考えているように見えます。つまり、暴露から非暴露への位相転換が行なわれているわけです。ここに、「言葉が現実を生成する」という20世紀的な思考を挿入すれば、文学的あるいはラノベ的なアクチュアリティ(現代性)が見えてくるのではないでしょうか。

 

総じて、気持ちよくエンタメしていて、楽しく読むことができました。

 

2023年

6月

28日

7つの中国アニメーション映画 Seven Chinese Animated Films

2019年に公開された『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)』を観て以来、中国のアニメーション映画が日本で公開されるたびに、なるべく観に行くよう努めてきました。このように自分の行動に変化を与えるくらい、『羅小黒戦記』は衝撃的におもしろかったのです。

 

2019年秋から2023年6月までにぼくの観た中国のアニメーション映画は、自分の記憶が正しければ、全部で7本です。備忘録もかねて、このへんでまとめておくことにしました。以下、一覧。

 

『映画名』

(監督名、制作会社名、中国・日本の初公開年、配給または提供)

 

(1)『羅小黒戦記』

(MTJJ監督、北京寒木春華動画技術、2019年中国・日本公開、面白映画・チームジョイ・アニプレックス)

 

(2)『白蛇:縁起』

(趙霽・黄家康監督、追光動画・ワーナーブラザーズ、2019年中国公開・2021年日本公開、面白映画・ブシロードムーブ・チームジョイ)

 

(3)『ナタ転生』

(趙霽監督、追光動画、2021年中国・日本公開、Taopiaopiao・Bona Film Group・Bilibili・チームジョイ・Netflix)

 

(4)『明るいほうへ』

(陳晨/ 趙易 / 蘭茜雅 / 兪昆 / 劉毛寧 / 李念澤 / 劉高翔監督、Benlai Pictures, 2021年中国公開、2022年日本公開、面白映画)

 

(5)『雄獅少年 ライオン少年』

(孫海鵬監督、2021年中国公開・2022年日本公開、北京精彩・泰閣映畫・面白映画・Open Culture Entertainment・ギャガ)

 

(6)『兵馬俑の城』

(林永長監督、Fantawild Animation Inc., 2021年中国公開・2022年日本公開、面白映画)

 

(7)『山海経 霊獣図鑑』

(黄健明監督、Daysview Digital Image, 2022年中国公開・2023年日本公開、面白映画)

 

以下、簡単にコメント。

(1)『羅小黒戦記』

中国のアニメーションが日本のアニメーションを技術的に追い越したことを象徴する、エポックメイキングな作品だと思います。中国のアニメーション・スタジオは、長年、日本のアニメーション制作(動画)の下請けを行なっていたので、いずれ日本は技術的に中国に抜かれると囁かれてきました。まさに本作において、「あ、抜かれた」とぼくは思いました(もちろん、これは一つの印象論です)。

 

(2)『白蛇:縁起』

白蛇伝がモチーフの作品。1000年の恋の物語。ド派手な演出で非常におもしろい。

 

(3)『ナタ転生』

封神演義がモチーフの作品。現代に転生した哪吒の物語。個人的には『羅小黒戦記』に次いで好き。CGで描かれるシースルーの服の質感がすごい。

 

(4)『明るいほうへ』

7人の監督による7つの短篇アニメーション。特に「ホタルの女の子」という作品が一番印象に残っています。あまんきみこ『車のいろは空のいろ』に感触が似ていると思いました。なお、7つの作品はいずれも絵本を題材にしているそうです。

 

(5)『雄獅少年 ライオン少年』

日本では2023年に本格的に全国公開。獅子舞に青春を賭ける少年たちの、ダンス・ダンス・アニメーションです。ストーリーは平凡なスポコンものかもしれませんが、ダンス(獅子舞)のキレと熱気がすさまじい。フォトリアルな背景に浮かないダンスのハイパーリアリティ。

 

(6)『兵馬俑の城』

単純な勧善懲悪から少しはみ出ているので、その分、作品に深みが出ている。もちろん、ストーリーに起伏も出ている。クライマックスはやはりド派手な演出で気持ちよくエンタメしてる。

 

(7)『山海経 霊獣図鑑』

山海経という中国の地誌書がモチーフ。色んな神や妖怪が出てきて魅力的なのですが、細田守の『バケモノの子』にテーマが影響を受けすぎている。ラスボスの造形は『サマーウォーズ』のラブマシーンに影響を受けすぎている。そこが残念。今回挙げた7つの中で、「残念」という感想をもった唯一の作品。

でも駄作とかそういうレベルではまったくない。

 

2023年

6月

21日

武装解除、あるいは内言と外言の融解 Disarmament of the Heart

 

『僕の心のヤバイやつ』第10話「僕らはゆっくり歩いた」に、非常に印象深いシーンがありました。市川の内言と外言の区別が消失するシーンです。

 

内言と外言は心理学者ヴィゴツキーの用語です。ここでは、内言は「心の中で言った言葉」、外言は「声に出して発せられた言葉」と理解していただいて構いません。以前ヴィゴツキーの本を読んだとき、随分便利な用語だなと感心したことがあり、門外漢なので自己流に、ちょっと使ってみることにします。

 

市川京太郎と山田杏奈が渋谷の夕闇を歩いている。山田が市川に、ごめんねと謝る。自分の行きたいところばかり連れ回したから、疲れちゃったよね、と。それに対し、市川は市川で「僕は自分のことばかり気にしていた」と内言し、こう外言する。「山田は僕のことをわかってないよな」。「僕はお人好しじゃない。嫌なことは嫌だと言う。そんな人間なんだ」。「だから、要するに、楽しかった……んだと思う」。

 

「僕は自分のことばかり気にしていた」という内言から、「山田は僕のことをわかってないよな」という外言までの流れが非常にスムーズで、後者が内言の続きなのか外言に切り替わったのか、アニメを視聴していて戸惑うのです。

 

漫画では、周知のように、内言と外言は明確に区別されます。おそらく少女漫画の開拓した表現技法のひとつだと思いますが、内言は四角(□)で囲まれ、外言はふきだし(💭)で表されます。ところがアニメでは、こういう視覚的手法を用いることができないため、声優の演技等の別の手法に頼るほかありません。では、ここで内言と外言の区別があいまいなのは、声優の演技がよくなかったためか? 違う。むしろ逆です。意図的にあいまいにしている。

 

なぜなら、このとき初めて市川は「僕」という単語を外言の中で使用しているからです。つまり、内言と外言が融解しているからです。いつも内言の中でしか用いられてこなかった「僕」が外言として用いられているからこそ、ぼくはこれが内言なのか外言なのかわからず、戸惑ったのだと思います(ちなみに第4話に、「僕」と言いそうになった市川が慌てて「俺」と言い直す描写があります)。そのことにすぐ気づけたのは、山田がこう返したからです。「わかる。だって「僕」って言った。自分のこと。普段はそうなの?」と。山田は市川の「僕」に逸早く気づき、「楽しかった」という言葉が市川の本心だと正しく理解します。

 

内言と外言の融解は、このシーンでは、市川の心がさらけ出されるのとほとんど同義です。別の言葉を使うなら、心にまとった鎧が武装解除されること。第12話に、「本当はさらけ出したいと思っているんじゃないのか?心を」という台詞(イマジナリー京太郎!)と、「鎧」という言葉が出てきます。ここで言う「鎧」とは、具体的には、『殺人の人文学』という人を遠ざける書籍のこと。抽象的には、前もって準備していた言い訳のこと。つまり、他者になじめない自分を正当化するための、自分の傷つきやすい心を守るための言い訳のことです。

 

第10話で無自覚に心を武装解除した市川は、第12話で初めて意識的に、みずから進んで鎧を脱ぎ、山田に自分の心をさらけ出します。そして、こんなふうに自分を変えてくれた山田に「ありがとう」と感謝を告げる。すると山田は、それは市川自身の行動の結果だと返す。山田と交流したから市川の心がほどけたのか、市川の心がほどけたから山田と交流するようになったのか。両人にとっては両方とも真実なのだと思います。

 

ところで第7話に、山田が走る市川の顔をじっと見て、「右目、初めて見た」と言って笑うシーンがあります。いつもは隠れている右目があらわになるシーンなのですが、改めてふり返ると、まるで市川の心に触れて喜んでいるかのようで、興味深い。第5話~第6話で、市川と山田がお互いの本心を探り、相手を気遣うシーンがいくつか見られることも、隠された右目=本心の置換を自然にしています。やっと本当の心が現れた、と山田がうれしがっているように感じられるのです。そして、この第7話あたりから、山田は積極的に市川にアプローチするようになります。

 

いずれにしろ、本作の切実なテーマが心の交流にこそあることを感じさせる、第10話と12話でした。桜井のりおの原作漫画(「Karte.44 僕らはLINEをやっている」)には、いみじくも、「色恋がどーのというより…心を通わせる描写…?がいい…」という市川自身の台詞があります。アニメでは第9話「僕は山田が嫌い」のラスト近くです。これは直接的には作中作『君色オクターブ』について言われた台詞ですが、『僕の心のヤバイやつ』という漫画/アニメの性格を見事に言い当てています。

 

実はこの台詞は、作中では、市川と山田の「好みや感性」が深いところで一致していることを示すギミックとして使用されています(山田は、自分の一番好きなシーンが市川も一番好きだと知る)。こういう丹念なディテールの積み重ねによって、本作が二人の心の交流を、触れ合いを、どれだけ丹念に描こうとしているか、染み入るように伝わってくるのです。

 

追記(6月24日)

ヴィゴツキーを連想したのは、この最後に挙げたシーンの市川の台詞がきっかけでした。アニメで市川が言及しているのは、『君色オクターブ』の登場人物たちが、「ノートの隅でやり取りするところ」です。

 

一方、ヴィゴツキーの本の中では、トルストイ『アンナ・カレーニナ』が分析されています。その分析箇所というのが、登場人物たちが紙に断片的な言葉を書き、そのやり取りだけで心を通わせるシーンなのです。

 

もちろん、作中作『君色オクターブ』は読んだことがありませんので、それが実際にどのような描写なのか詳しくはわかりません。が、ふと『アンナ・カレーニナ』における描写を連想し、そこからさらにヴィゴツキーの本が思い出されたのでした。だから、市川の心の声と実際の声とが溶け合ったとき、ヴィゴツキーの内言と外言を想起したのは、自分にとってとても自然なことだったのです。

 

2023年

4月

29日

戦争の葬い (Похороны войны)

2023年4月21日(金)公開MV『葬うのだ、戦争を』歌詞

(原題『Похороны войны 戦争の弔い』) 

 

歌詞:ユーリ―・シェフチューク

(ロックバンド・DDTのボーカル)

 

君の家に悲しみがやって来ても

泣かないで、怖がらないで、求めないで。

ぼくの真夜中の星よ

病んだ世界を照らしくれ。

 

恐怖と憂鬱の毒の下

すべてが埋まってるとこへ

友達にワイン ついでやれ

希望の花びら 振りかけろ。

 

 夢が降る 雨のように

 静寂の調べみたいに

 ぼくらはこんな夢を見る

 一緒にやろう

 皆で一緒に

 葬うのだ、戦争を。

 (※くりかえし)

 

辺りでは 君の愛したすべてが消えた

この辛いとき

眼をそらすな、音をひねりだせ

この世界がひとつになるように。

 

明るい歌をうたえよ、若えの、

愛の歌をうたえよ――実現するから

全土を挙げて 戦争を

葬うのだ、ぼくらが。

 

 夢が降る 雨のように

 静寂の調べみたいに

 ぼくらはこんな夢を見る

 一緒にやろう

 皆で一緒に

 葬うのだ、戦争を。

 (※くりかえし)

 

MV『葬うのだ、戦争を』↓

 

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2022年

11月

11日

新海誠『すずめの戸締まり』と村上春樹 ("Судзумэ, закрывающая двери" Макото Синкая и Харуки Мураками)

新海誠監督『すずめの戸締まり』、初日に観てきました。

公開日が11月11日と知って以来、2022年の中心をこの日に据え、万全の状態で観るために諸々調整してきました。

 

公開記念として、以下、村上春樹の小説との類似という点について、気づいたことをすこし書いておこうと思います。

 

今作『すずめの戸締まり』は、東日本大震災を真正面から取り上げた「震災文学」の系譜に連なる作品です(もちろん今作は映画ですが、新海監督自身が『新海誠本』の中で「震災文学」と表現しているので、それに倣います)。

 

『すずめの戸締まり』では、地震をはじめとする災厄の元凶は、「後ろ戸」と呼ばれる扉から奔出する「ミミズ」として視覚化されています。この「ミミズ」は普通の人の目には見えません。「閉じ師」と呼ばれる一部の人か、後ろ戸を開いてしまったすずめのような、特殊な条件下の人しか見ることができません。

 

地震とミミズ。この組み合わせにピンときた人は多いだろうと思います。村上春樹『かえるくん、東京を救う』にも同じ組み合わせがあるからです。この短篇小説では、「かえるくん」が「みみずくん」と地下で戦います。なぜなら「みみずくん」は地震を引き起こすことができ、「かえるくん」はそれを阻止したいと願うからです。

 

『すずめの戸締まり』と『かえるくん、東京を救う』の類似点は、この組み合わせだけでなく、テーマにも及んでいます。『すずめの戸締まり』の中に、「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」という台詞がありますが、村上春樹の短篇でも、まさにこの点が強く打ち出されています。「かえるくん」は「みみずくん」との報われない戦いを人知れず行ない、そしてその戦いへの協力を、やはり人知れず報われない仕事をつづける片桐という会社員に頼むのです。

 

ところで、新海誠監督が村上春樹の小説に言及するのは、『すずめの戸締まり』が初めてではありません。これまで自身の多くのアニメーション作品で、直接的・間接的に言及してきました。

 

たとえば『君の名は。』は、村上春樹の『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』という短篇小説に強い影響を受けています。それは新海監督も認めており、スガシカオとの対談の中で、「『君の名は。』はあの短編のオマージュです」とまで言っています。

 

新海誠監督の『雲のむこう、約束の場所』、『秒速5センチメートル』、『言の葉の庭』などには、村上春樹の小説の言葉が響いています。たとえば『ノルウェイの森』の中の、「僕ひとりだけが、その風景に馴染んでいないように思えたからだ」とか、「まるで我々三人だけが世界のはしっこにとり残されたみたいに見えた」といった言葉は、『雲のむこう』のヒロキとサユリの独白「ぼくだけが(わたしだけが)、世界からひとりきり、とり残されている。そんな気がする」を連想させます。

 

さらに、「ねえ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ」という『ノルウェイの森』の緑の言葉は、『言の葉の庭』のユキノ先生の台詞として、ほとんどそのままの形で用いられています。

 

ほかにも、『雲のむこう、約束の場所』では、劇中に村上春樹『アフターダーク』(パイロット版では村上春樹『海辺のカフカ』)が映るカットがあります。そもそも『雲のむこう』のヒロイン・サユリに体現されている「眠りつづける少女」というモチーフは、『アフターダーク』に見られたものです。

 

もうこの辺りでやめておきますが、このように何度も村上春樹の小説に言及してきた新海誠作品の中でも、今作『すずめの戸締まり』は、その影響がより色濃く、より広範囲で、より直接的であるように思えました。

 

…と、長々書いてきましたが、公開初日なので、内容にはあまり深入りせず、このへんで…。

2022年

10月

06日

ニカ・レーニナは無事のようだ (About Nika Lenina)

2022年3月、ジョン・レノンの歌「Give Peace A Chance」のロシア語バージョンがYouTubeにアップロードされました。

日本のアニソンをロシア語でカバーしている人たちのコラボ動画なのですが、オールスターと言っていい豪華な顔ぶれです。ただ、この中にニカ・レーニナのいないのが当初から気がかりでした。

 

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2022年

5月

13日

ROAR――ロシア反体制芸術レビュー

ROAR--Russian Oppositional Arts Review というウェブ雑誌が近頃創刊されました。ウクライナに対するロシアの戦争を非難する目的で創刊された雑誌のようです。編者のリノール・ゴラーニクは、創ったばかりのこの雑誌の廃刊を心待ちにしていると言います。なぜなら、「犯罪的ロシア体制」に反対する必要がなくなれば、すなわち現体制が崩壊すれば、雑誌はその役割を終えるからです。

 

『ROAR』は、さまざまなジャンルから構成されており、それぞれ「声」、「エッセー」、「詩」、「アート」、「音」と名づけられています。ぼくが目を通した限りは、小規模な「作品」が目立ちますが、淡々と哀しみをつづったもの、ユーモアの中に反戦の意志を滲ませたものなど、内容は多岐にわたっています。

 

『ROAR』創刊号の中から、「作品」をひとつだけご紹介します。著者は「Борис 悪人」。日本にも多くの翻訳がある作家で日本文学研究者のボリス・アクーニンです。

 

戦車(タンカ)

かたつむり そろそろ登れ 富士の山

ロシア艦 さっさと行けよ おのが路

 

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2021年

12月

29日

ほんのこども (On the novel by Ryohei MATIYA)

町屋良平『ほんのこども』(講談社、2021年)は、彼のこれまでの小説のなかで一番の傑作のような気がします。多くの人にとっておそらく「拙い」と感じられる彼の小説の言葉が、当たり前に世界を認識し、当たり前にその認識を言語化することのできない(あるいは生理的に拒絶してしまう)、やむにやまれぬ精神の苦闘の発露であり痕跡であることが切々と伝わってきました。

 

ちなみに『ほんのこども』には、ハルムス研究者が登場します。いや逆説的な言い方になりますが、登場しないと言ったほうが正確かもしれません…。いずれにしろ、「ハルムス」という名前が小説の中に出てきます。

(ぼくはその研究者のモデルであるというより、触媒である、と言うべきかもしれません。実在の人物とその小説化という課題は、『ほんのこども』の根底にある課題です。)

 

『ほんのこども』は、ハルムスのみならず、多くの詩人・作家が書いたものとも響き合っています。 町屋良平自身の他の小説、そして海外の作家・詩人の小説と詩とのあいだに、共鳴を聴きとることができます。

 

作家本人がどれほど自覚しているか分かりませんが、ぼくは勝手に、この小説は『しき』(2018年)と『愛が嫌い』(2019年)になされた否定的な批評へのカウンターだと感じました。

 

『しき』に対し、「つくも」という少年をもっと掘り下げるべきだ、というコメントをした作家がいました。『ほんのこども』に登場する「あべくん」こそ、掘り下げられた「つくも」として読むことが可能です。

 

また、『愛が嫌い』に対し、まだうまく喋れない幼い子どもの言葉を代弁するのは暴力的だとコメントした批評家がいました。『ほんのこども』は、まさしく「代弁」の可能性・意義・限界・暴力性を、すなわち誰かが誰かを語るという小説の在り方そのものの可能性・意義・限界・暴力性を徹底的に突き詰め、敷衍し、追求した小説だといえます。

 

一方で『ほんのこども』は、このサイトに部分訳を掲載しているヴァーギノフの長篇『スヴィストーノフの仕事と日々』に少し似ています。後者でも、やはり現実と小説の境界が、書く人/行為と書かれる人/行為の境界がクロースアップされているからです。

 

それから、ドイツの詩人シュヴィッタースの詩『アンナ・ブルーメに寄せて』を想起させます(大木文雄の下記の論文「伝統からの脱出としての総合芸術 : クルト・シュヴィッタースのメルツ詩『アンナ・ブルーメに寄せて』をめぐって」に訳出されています)。

http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/4205/1/41-1-1A-03.pdf

 

ぼくがシュヴィッタースのこの詩を知ったのは10年くらい前で、当時すべてを読んだわけでもないのに、「きみが きみの きみを きみに、ぼくはきみに、きみはぼくに。――ぼくらは?」という一節が鮮烈で、くっきり記憶に残っていました。破格の文法を用いながら、「きみ」にあらゆる角度から肉薄しようとする詩人の水面下で水を蹴るようなもがきは、『ほんのこども』の語り手の切実さと重なる気がしました。

 

知覚するとは何か、認識するとは何か、言葉にするとは何か、小説を書くとは何か、小説を読むとは何か。そういった根源的な問いを、抽象的な議論に終始せずエンターテインメントとして形にした『ほんのこども』は、読者もおそらく作者と同様に悩み、考えながら読むことができ、切実さを共有できます。少なくとも、いま読んでいる体でいるうちは。

 

2021年

10月

17日

タ・ラ・ラ・ブンビヤー (Та-ра-ра-бум-бия)

つい最近、人から教えてもらったのですが、チェーホフ『三人姉妹』(1900年)のなかでチェブトゥイキンが口にする台詞「タ・ラ・ラ・ブンビヤー」は、1891年にイギリスで広まった歌「Ta-Ra-Ra Boom-De-Ay」から採られているようです。

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2021年

10月

12日

アニソンカバー (Аниме каверы на русском)

『ユーラシア研究』の表紙を何気なく見ていたら(最新号?)、ロシア人YouTuberについての報告が載っていました。

 

去年の日本ロシア文学会で行なわれたワークショップで、柚木かおりさんが報告された内容だそうですが、去年の秋は学会どころではなく、世を儚んでいたため、参加はおろか、ワークショップの内容さえ確認していませんでした。それで、今日初めて報告内容について知ったわけです。

 

Jackie-0、ニカ・レーニナ、サチ・アクーラが紹介されていて、おどろきました。日頃からよく聴いているからです。

 

Jackie-0を知ったのは4年くらい前で、『君の名は。』の楽曲をカバーしているのを見つけたことがきっかけです。『前前前世』の歌い出しが、「Я долго ждал」(ヤー・ドールガ・ジダール)で、日本語の「やっとー目をー」と出だしの音(や)が同じで、かつリズムも揃っていたことから、一気に引き込まれました。

 

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2021年

2月

21日

スターリン時代を描いた小説について (Романы о сталинской эпохе)

 

先日、グロスマン『人生と運命』を読み終えました。手に取ることは一生ないと思っていた大長篇ですが、機会があったので読んでみました。

 

スターリン時代を描いた歴史的な傑作として非常に高く評価されていますが、個人的にはおもしろくなかった。特に第1部は読むのが辛すぎて、猪の皮をかぶった少年が登場する漫画以外は金輪際もう何も読むまいと本気で思っていました。

 

とにかく固有名詞が多く、物語はパッチワーク状で、多数の場面が並行して描かれるため、登場人物の関係性が皆目分からない。

 

400ページ目くらいに出てきた人物が、4ページ目くらいに一度だけ言及された人物と同じだと気づける読者が一体どれだけいるでしょうか。相当注意深い読者でさえ難しいのではないでしょうか。ぼくが気づけたのは、ほとんど偶然のようなものです。

 

この難解さにはちゃんとした理由があります。

実は『人生と運命』はグロスマンの巨大な構想の後編を成しており、前編『正義の事業のために』を読まずにいきなり後編を読んでも、理解できない箇所が多々あるのは当然というわけです。

 

現代物理学とファシズムには通底する論理(確率の論理)がある、という指摘は興味深かったです。が、その箇所を丹念に読んでみると、どうも記述がゆるいと感じられてしまう。指摘そのものはおもしろいのに、具体的な論証が物足りない。というかぎこちない。

 

同様のことは小説全体についても言えて、だからこの小説を一種のコンセプチュアル小説のように感じてしまう(コンセプトは壮大だが実態が伴わないという意味で)。

 

前編を読んでいない自分が『人生と運命』を正しく評価することは固よりできませんが、少なくとも後編についていえば、あまり良い印象は持てませんでした。

 

やはりスターリン時代を描き、やはり多数の場面を並行させ、やはり出版をなかなか許可されなかった『アルバート街の子供たち』(ルィバコフ著)のほうが、圧倒的に優れていると思います。訳もこなれていて、読みやすいし。

 

 

せっかくなので、『人生と運命』と同じく独ソ戦を背景にした、『卵をめぐる祖父の戦争』についても少し。

これは、デイヴィッド・ベニオフというアメリカの脚本家・作家の小説です。彼はかなり著名な映画人のようですが、小説も舌を巻くほど上手い。戦争の不条理がこれ以上ないほどの馬鹿馬鹿しさと残酷さで余すところなく描かれ、友情と愛情に満ち、笑い声が響いている。傑作といえるかもしれません。

 

ただ、上手すぎる、おもしろすぎるきらいもある。いわば、あざと上手い、あざとおもしろい。

 

こういう感覚がどうして生じるか考えてみると、ひとつひとつのエピソードが小説全体で果たしている役割があまりに明確だからではないか、と思い当たりました。すべてがきちんと収まるべきところに収まっており、余剰部分がない。また、小説のなかで描かれる感情や、読んで得られる感情もあまりに明白で、容易に言葉にできてしまう。

 

これは「不条理感」を出すために考案されたエピソードだ、これは「悲しみ」を描いており、いま自分が感じているのは「悲しみ」だ、等々。だから、作為性、要するにあざとさを感じてしまうのではないか?

 

すべて上手く設計されているけれど、見たことのない照明、階段、手すり、思いがけない所から臨める景色、名状しがたい雑貨には出会えなかった――読み終えて数日経つと、そういう感慨を抱きます。

 

まあこれは個人的な趣味の問題です。ない物ねだりかもしれません。読んでいるときは大変おもしろかったです。おすすめ。

 

参考)

『卵をめぐる祖父の戦争』レビュー(ハッピーエンド急行)

大変すばらしいレビューです。この小説がどんなにおもしろいか知りたい方は、このレビューを参考にされると良いと思います。

 

ところで、『卵をめぐる祖父の戦争』は、『攻防900日』(ソールズベリー著)を資料として挙げています。主人公たちが出くわすレニングラードの食人鬼のエピソードは、この本から採られたものでしょう。独ソ戦の最中、レニングラードはドイツ軍によって封鎖され、人びとは飢餓に苦しんでいました。

 

『攻防900日』にはハルムスが登場します。ぼくはかつて風間賢二の本でこの事実を知りました。実際に自分で読んでみると、ハルムスだけでなくオレイニコフも登場していました。ちょっとだけですが。

 

2021年

2月

06日

ヒーローのいない物語(『鬼滅の刃』について)(История без героя: О аниме "Клинок, рассекающий демонов")

漫画『鬼滅の刃』について思ったことなど。

 

個人的にはこの漫画が傑作だとは思っていませんが、実に魅力的な漫画だと思います。ちなみに、ぼくにとって「傑作」であることは、世界に数ある魅力の一つに過ぎないので、「傑作」だと思うあれこれの作品より、そうでない作品のほうが魅力的に感じることは多々あります。いわば傷があってもその傷を覆い隠すほどの魅力がある作品のほうが、端正に整っただけの作品より好きだということです。

 

さて、『鬼滅の刃』にはたくさんの魅力があります。鬼になることの切なさ、主要登場人物たちを押し潰す運命の容赦なさ、物語の余白、ヒーローがいないこと等々。

 

とりわけ印象的なのは、最後に挙げた「ヒーローがいないこと」です。ここでの「ヒーロー」は、「主人公」の意ではなく「英雄」の意です。主人公の竈門炭治郎をはじめとする鬼殺隊の面々は、強い鬼と戦うとき、一対一では勝つことができません。鬼殺隊の最高位である柱でさえ、一対一では上弦の鬼に敵いません。事実、上弦の鬼の強さは、「少なくとも柱三人分の強さに匹敵」するとされています。

 

<対決表>

上弦の陸×宇随天元、炭治郎、伊之助、善逸、宇随の嫁、禰豆子

上弦の伍×時透無一郎

上弦の肆×甘露寺蜜璃、炭治郎、不死川玄弥、禰豆子

上弦の参×冨岡義勇、炭治郎

上弦の弐×胡蝶しのぶ、カナヲ、伊之助

上弦の壱×悲鳴嶼行冥、不死川実弥、不死川玄弥、時透無一郎

 

時透無一郎が一人で上弦の伍を倒したのは例外中の例外であり、漫画でも「異常事態」と言われています。しかし天賦の才をもった彼でさえ、上弦の壱に片腕を切り落とされ、ついに絶命します。

 

つまり、鬼殺隊には絶対的な強さを誇る個がいない。

だからこそチームを作って一人の敵を倒そうとする。最も典型的なのは、鬼舞辻無惨との戦いです。

 

無惨×悲鳴嶼行冥、不死川実弥、冨岡義勇、伊黒小内、甘露寺蜜璃、炭治郎、伊之助、善逸、カナヲ

 

この戦いにはさらに、珠世、胡蝶しのぶ、愈史郎、隠の人びとが間接的に参戦しており、彼女たちは勝敗を左右する決定的に重要な役割を果たします。

 

「敵×味方」が「一×多」になる構図は、RPGなどのゲームに顕著です。『鬼滅の刃』という漫画自体がRPGと似た構成を終盤に見せるのも興味深い点です(隠された剣=隠しアイテム、無惨城=ラストダンジョン等)。

 

この漫画には突出した力をもつ英雄がいません。いや正確にいえば、かつてはいましたが、今はいません。いないからこそ力を合わせ、死んだ仲間たちの遺志を継いで戦う。

 

主人公の炭治郎は柱になれないし(匹敵する力を付けたとはいえ)、日の呼吸を完全に使いこなすことは結局できませんでした。英雄の子孫でもありませんでした。炭治郎の痣は他の隊士にも出現し、「透き通る世界」が見える目も彼ひとりの所有物ではありません。

 

主人公の能力がこれほど他者の能力に埋もれてしまう物語は珍しいのでないでしょうか。主人公の力を他の登場人物と同等かそれ以下にしようとする作品の姿勢は、物語の中盤辺り(遊郭編)から徐々に顕在化してゆきます。

 

炭治郎はヒーローではない。他の誰もヒーローではない。世界にヒーローはいない。それこそが『鬼滅の刃』の思想なのだと思います。

 

ここから、事を成すのは絶対的な力をもつ個ではなく、遺志を継いだ多である、という作品のテーマが説得力をもって押し出されてくる。

 

ぼくが『鬼滅の刃』を魅力的だと感じるのはこの点だけではありませんが、わざわざこのサイトで取り上げたのは、まさにこの点が理由です。というのは、2012年にこのサイトを作成した目的が、ハルムスを研究するため「天才の出現を待つよりも、専門家以外も含む集団によって知を深化させること」にあったからです。

 

「事を成すのは個より多ではないか」という当時の自分の気持ちと『鬼滅の刃』を底流している思想・テーマとが共鳴しているように感じたわけです。

 

『鬼滅の刃』のテーマは、この世界ではほとんど常に悪意のほうが善意より強い、という考えと背中合わせです。壊すのは容易だが作るのは一人ではできない、という前提に立たたなければ、「多」を信じる思想は生まれないでしょう。

 

どうしてこんなことを書くかといえば、たった一人の悪意によって引き起こされた京都アニメーション放火事件が脳裏にあるからです。

 

小さな善意を横に繋ぎ、縦に伸ばしてゆくほかない。もしかすると、この漫画にぼくが強く惹かれる点は、意志を繋いでゆく主人公たちの眩しいほどの健気さと強さなのかもしれません。

 

2020年

10月

31日

赤毛のアン (Anne of Green Gables)

 

今年3月から約半年間にわたり東京MXで放送された『赤毛のアン』――1979年に「世界名作劇場」枠で放送されていたTVアニメの再放送――実は今回、初めて観ました。毎週月曜欠かさず観ていましたが、毎週感動していました。これを演出した人は、史上稀に見る芸術家だと思います。高畑勲。彼はジブリ設立前にすでに成し遂げていたんだと知りました。

 

『赤毛のアン』は、孤児院からマシュウ・マリラの老兄妹の元に引き取られたアンの5年間の成長を追った物語です。まず驚くべきは、アンがグリーンゲイブルズで暮らすことが決まるまでの1日の描写に、6話分の時間を費やしている点です。1回分の放送時間を25分とすれば、25×6=150分です。普通の映画の上映時間を軽く超えてしまう。本格的な物語が始まるまでのプロローグに、映画1本に収まりきらないほど豊富な時間を充てているわけです。

 

また、現実の視聴時間を考えてみても、これがやはり異常だということにすぐ気が付きます。6話分なので、1ヶ月半近くです。アンが孤児院からグリーンゲイブルズにやって来て、1泊し、ここで暮らせると知らされるまでの丸1日を、約45日の長きにわたって描いてゆく(ちなみに今回の再放送では、2話ずつ放映していました、それでも3週間です)。視聴者を飽きさせずに、じっくり対象を描き抜く驚異的な粘り強さと演出力です。

 

賞讃すべき箇所は枚挙に暇がないのですが、凡庸な演出家なら凡庸に描いてしまうようなありふれたシーンを、高畑勲は登場人物から少し距離を取って描き、実に滋味深いシーンに仕上げます。たとえば、アンが親友のダイアナについてマリラに話して聞かせるシーン。ダイアナが物語を書くと、どう振る舞わせたらいいか分からない登場人物はすぐ殺してしまう、とアンは言います。観ているほうは思わず笑ってしまうエピソードなのに、アンはその面白さに気づいていない。そしてマリラは呆れて口をぽかんと開け、一言も発しない。

 

あるいは、次のシーン。馬車の中でアンが友人たちに「宝石やお金よりも大切なものがある」と心情を吐露します。台詞の内容自体は特筆すべきものではありませんが、彼女の台詞を聞いている少女たちの反応が興味深い。じっと黙ってアンを見つめるのです。肯定も否定もしない、長い間。

 

のちに『おもひでぽろぽろ』で高畑勲はこの手法を再活用しています。映画の最後に映し出される、主人公のタエ子(小学5年生)の顔のアップ。27歳の(現在の)タエ子の結婚が決まり、映画は微笑ましいハッピーエンドを迎えます。しかし、小学5年生のタエ子がこちらに投げかける何ともいえない眼差しに、ぼくらは胸を締め付けられる。大人になること、過去と決着をつけること、それは過去から時間的にも心理的にも遠ざかることです。成長し、たとえ幸福な人生が開けるのだとしても、それはやっぱり寂しいことなのではないか? 少女の表情は、ぼくには寂しく見えました。

 

圧巻は物語終盤、マリラのアンに対する愛情が初めてはっきり表白されるシーンです。1年間の予定で家から離れ、クィーン学院で勉強しているアンは、大学の奨学金を得ようと秘かに野心を燃やします。が、大学に行ってグリーンゲイブルズをさらに4年も留守にすることに引け目を感じ、マリラとマシュウには言い出せない。そのままクィーン学院で勉強を続けます。しかし、二人はそれを察している。

 

マリラの相談相手のリンド夫人が訪ねてきて、アンを大学に行かせることはない、と意見を言われたとき、マリラはこう返します。アンは神から授けられた子なんだ、と。あの子の自由にさせてあげたい。養子にしていないのもそれが理由なんだ、自分たちの都合であの子を縛りたくないんだ、と。

 

マシュウは初めからアンに対し傍目も気にせず存分な愛を注いでいましたが、マリラは態度で示しこそすれ、口には出しませんでした。本当の母のように厳しく、温かく、躾けてきました。その堅い口がようやく、物語の終盤になって決壊する。これは「感動」と言うだけではまったく足りない。適当な日本語が見つからない。語彙の何たる貧困、何たる欠乏! マリラの告白を聞いた途端、時間が一瞬凝固し、それから樹液のようにゆっくり、星のめぐるように悠大に流れ、胸の奥深くが灼けるように熱くなりました。

 

物語の最終盤で、アンにどっと不幸が襲いかかりますが、作品は静かな光を湛えながら終わります。ぼくはTVアニメ『CLANNAD』を思い出しました。そこでは、主人公の朋也にやはり不幸が重ねて襲いかかります。しかし、奇蹟によって救われる。その奇蹟は、第1話からくり返し張られていた伏線を回収した結果なので、決して予定調和的なものではなく、むしろ作品としての完成度の高さを示しています。ただ、個人的には、それでも生きてゆく朋也の姿が見たかった。生きる目的をすべて略奪された後に生きる姿を見てみたかった。『赤毛のアン』で示されたのが、まさにそのような生きる姿でした。

 

人生は生きるに値する。宮崎駿がよく口にする言葉ですが、高畑勲の演出した『赤毛のアン』の中にこそ、ぼくはその言葉の真実を見たように思います。

 

2020年

9月

15日

犬、鐘、ハルムス (Собака, колокол, Хармс)

『マロナの幻想的な物語り』(アンカ・ダミアン監督)と『新しい街 ヴィル・ヌーヴ』(フェリックス・デュフール=ラペリエール監督)を先日観ました。どちらも長篇アニメーション映画ですが、非常に対照的。

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2020年

9月

11日

更新情報 オターヴァ・ヨーのMV (Отава Ё)

随分前になりますが、「コラム2」第5回をアップしました。

ハルムスの詩「掃除夫」を題材にしたMVの紹介です。歌・出演のオターヴァ・ヨーは、ロシアのフォーク・グループ。他の楽曲もおススメ。

2020年

9月

10日

赤い太陽、あるいは『耳をすませば』の或る見方について ("Щепот сердца")

『耳をすませば』が劇場公開された1995年、初めて金曜ロードショーで放映された1996年、そしてそれからしばらくの間、『耳をすませば』はぼくらにとって憧れの対象でした。あんな素敵な出会いをしたい、聖司や雫と同じように夢を追いたい。

 

2000年以降も、ぼくは同じ気持ちを持ちつづけていましたが、周囲は違いました。2004年頃からでしょうか、「鬱映画」というレッテルを貼る人たちが徐々に目につくようになりました。映画に描かれている青春があまりに眩ゆいため、そういう青春を送れなかった自らを省み「鬱」になってしまう、というところからそう呼ばれ出したようです。

 

素敵なものを見たとき、なぜ憧れるかわりに鬱になるんだろう、妙な人がいるものだ、と当時のぼくは思い、ほとんど気に留めませんでした。しかし、2000年代も後半になるにつれ、そういう「妙な」見方は増えてゆきます。主にネットを中心に、『耳をすませば』はもはや「鬱映画」の代名詞になってしまいました。

 

身近な人までもがネットと同様の意見を口にし、「鬱になるよ」と笑いながら言う始末です。いつの間にか、ぼくにとって「妙な」見方はネットもリアルも席巻し、聖司と雫に憧れるぼくのような見方こそ、「妙な」ものに逆転してしまったようです。

 

ここで、ずっと昔の話をしたいと思います。幼稚園に通っていたとき、絵を描く時間がありました。題材は覚えていませんが、皆、外で遊んでいる光景を描いていたような記憶がうっすらあります。はっきり覚えているのは、どの画用紙にもクレヨンで赤く塗られた太陽が鎮座していたこと。そして、さらにはっきり覚えているのは、それを見たときのぼくの気持ち。「なんで太陽が赤いの?」

 

真昼の空に光る太陽は、もちろん赤くありません。ぼく以外の園児は、太陽が宇宙空間に真っ赤に燃える火の球だということを知っていたのでしょう。当時のぼくには、その知識がありませんでした。だから、赤ではなく黄のクレヨンを手にしたのです。

 

ちなみに、「ぼくだけがありのままの世界を描いた」と言うつもりはまったくありません。光を黄色で表現するのはやはり慣習的ですし、そもそも戸外を描くのに太陽が欠かせないという法もないわけですから。

 

いま、自分の幼稚園の話をしたのは、『耳をすませば』についてのぼくの言う「妙な」見方も、一種の「赤い太陽」なのではないかと思うからです。「鬱映画」だという知識が、先入観が、観る者の眼を曇らせているのではないか、知識の赤い太陽が園児の眼を眩ませていたように?

 

改めて断っておきますが、「ぼくだけが映画の真実を見ている」と言うつもりはまったくありません。多かれ少なかれ、人は何らかの知識や経験に見方を左右されてしまうものですから。ただ、ネットで安売りされている色眼鏡を掛けていることに無自覚に瞳に映った風景をさも自分の眼で見たように言うのは、つまらない。どうせ掛けるなら、他人の知らない眼鏡を。

 

ぼくは自分の中学時代を通して『耳をすませば』を見ます。世界で一番好きな映画です。

 

2020年

9月

06日

「くつろぎ」の発明

ぼくは最近引越したのですが、新居に新たに購入すべき家具・調度品はかなり吟味しました。絨毯、本棚、テーブルは、自分の中で一定の基準を満たしたものだけを選んで置いています。基準というのは、「安心」や「くつろぎ」でした。

 

ヴィートルト・リプチンスキー『心地よいわが家を求めて』で明らかにされているのは、その「くつろぎ」という概念がヨーロッパでいかに発明され、いかに変遷してきたかという歴史です。

 

リプチンスキーによれば、「くつろぎ」はおろか、その前提である「家庭」でさえも、歴史的に形成されてきた概念だそうです。「くつろぎ」は中世ヨーロッパには存在せず、ようやく誕生した後も、建築家からしばしば蔑ろにされてきたと言います。

 

また、現代の住まいにおいても見た目のほうが「くつろぎ」より重視される傾向にあることを、著者は嘆いています。生活感がなく、凝った装飾を排除したミニマルデザインがもてはやされる現状には、ぼくも不満を持っていたので、リプチンスキーの意見が日本で浸透することを期待します。

 

さて、リプチンスキーのこの本は、「知の考古学」の系列に属すると考えられます。ここで言う「知の考古学」とは、フランスの思想家フーコーの一連の仕事(同名の書物のみならず)の性格を指していると考えてください。古生物学者が骨片から古生物の全体像を復元するように、フーコーは過去の史料から当時の知のあり方全体(エピステーメー)を復元します。

 

フーコーの方法を採る人は、他の分野にもいます。たとえばフィリップ・アリエスは、『子供の誕生』で「子供」という概念が歴史的な形成物であることを明らかにしました。また、日本では柄谷行人が『日本近代文学の起源』において、「風景」が「発見」された経緯について明らかにしています。

 

このような「知の考古学」の方法を、 リプチンスキーは 「家庭」という非常にありふれた対象に適用したと言えるように思います。その意味では、本書は知的刺激に満ちた優れた研究書です。

 

と同時に、家庭での居心地のよさという誰にとっても身近な問題を取り上げた、楽しい本でもあります。

 

残念なことに、本書はどうやら日本であまり流通しておらず、図書館でも所蔵している所は多くないようです。それなら、せっかくなので図版を増やし(図版の僅かなのが不満でした)、再刊してほしいですね。

 

2020年

4月

06日

お知らせ2つ

東京大学の「BiblioPlaza」というサイトで、『理知のむこう――ダニイル・ハルムスの手法と詩学』を紹介しています。 ご興味のある方はご覧くださいませ。

 

また、詩人の山﨑修平さんの主宰する「crossover」というサイトで、歌人の伊波真人さん、作家の町屋良平さん、山﨑さん、そしてぼく、の間で去年行なった読書会の模様が公開されました。マーサ・ナカムラさんの詩集『狸の匣』が課題図書です。こちらもご興味のある方はご覧くださいませ。

 

ちなみに、この読書会の後半で、ぼくは視覚の話をしています。この話の背景には、純粋な知覚というものはなく、知覚はつねにすでに知覚以外のもの(思考、嗜好、希望、習慣、常識等々)の侵入を許している、という考え方があります。

 

ところで、純粋な知覚への志向、とりわけ、ありのままに世界を見たいという志向は、ハルムスに見られました。ハルムスだけでなく、西洋のモダニズム全般に見られました。この点については、クレイリー『観察者の系譜』に詳しいので、ご興味のある方はご覧くださいませ(今日はこればっかりですが…)。

2020年

1月

01日

新年

明けましておめでとうございます。

昨年は、研究書と翻訳書を両方上梓することができましたので、大変実りある1年だったのだと思います。

「だったのだと思います」という書き方をすると、すこし他人事のようですが、正直、あまり実感が湧いていません。

 

不思議なことです。

5年程前までは、博論を書きあげることさえ、自分には叶わないと思っていました。博士号は取れず、成りゆきで中退して、仕事に就けず、お先真っ暗。

ところが実際には、博論を無事に書き終え、博士号を取得できたばかりでなく、博論の出版が決まり、そして翻訳書まで上梓するという幸運に恵まれました。信じがたいことです。

それなのに、意外なほど喜びが薄い。

 

理由は確とは分かりません。ただ、去年起きたことは基本的にすべて、それまでの勉強の結実だったことは判然りしています。ひょっとしたら、自分は収穫の喜びより、種を蒔く楽しみのほうが好きなのかもしれません。

 

もちろん、いつもうまく収穫できることは限りません。不作がつづけば、やがて種を蒔くこともやめてしまいます。そもそも、種蒔きが楽しいのは、大きな収穫を期待しているからです。去年、夢のような果実を得られたことで、今年また畑を耕すことができます。とてもありがたいことです。

 

新しく、今年を始めたいと思っています。

 

2019年

7月

02日

半年

今年も半年が過ぎましたので、大きな出来事を整理。

 

3月上旬

『理知のむこう――ダニイル・ハルムスの手法と詩学』が未知谷より刊行されました。

5月

神奈川大学で川端康成について授業をさせていただきました。

6月

・東大で出版記念講演をさせていただきました。

・スラヴ・ユーラシア研究東アジア大会で、『エリザヴェータ・バーム』について発表を行ないました。国際学会での初めての発表で、とても緊張しましたが、何とか乗り切ることができました。

・町屋良平さんが、日本経済新聞(2019年6月29日朝刊)でぼくのことを紹介してくれました(ハルムスについての記述もあり!)

(交遊抄)「かれと文学のあいだに」

 

(ちなみに、ぼくが彼の芥川賞受賞をお祝いした文章は→「まるで小説を書くように」)

 

2019年

1月

01日

明けましておめでとうございます

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

昨年はロシア文学の領域では新しいことにあまりチャレンジできませんでしたが、ライターとしては新しい展開がありました。

特に、amazarashi初の武道館ライブの模様をレポートできたことはうれしい経験でした。月並みな感想ではありますが、5年前の自分にそう言っても信じてもらえなかったことと思います。

 

「あのamazarashi」が武道館でライブをしたということ。そしてそれを「あの自分」がレポートしたということ。かつて望んでいたものよりも大きい喜びを、しかも二重に味わえたことが、昨年のハイライトでした。

 

すぐ思い出されるのは、2016年に新海誠監督『君の名は。』が歴史的な大ヒットを記録したとき、監督自身が「あの新海の映画が」と驚いていたことです。

 

デビュー当初から私が熱心に追いつづけてきた二人(新海誠とamazarashi)が、こうして立てつづけに「ビッグになる」という現象を目の当たりにし、また月並みな感想ですけれども、とても勇気づけられました。

 

今年は私自身に大きな契機が訪れます。まだお知らせすることはできませんが、「あのヘタレがねえ」と、誰かを勇気づけることができたら、うれしい限りです。

 

 

※「オベリウの作品」にヴァーギノフの長編小説『スヴィストーノフの仕事と日々』の一部抜粋を翻訳紹介しました。ご興味のある方はお読みくださいませ。

 

 

 

2018年

11月

09日

ホルヘ・イバルグエンゴイティア原作の映画『ライオンを殺せ』記念上映とトーク

 

スペイン語圏文化の普及をおこなっている文化機関「インスティトゥト・セルバンテス東京」の方から、標記のようなイベントのご案内をいただきましたので、こちらにそのイベント情報を転載します。

 

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内容:『ライオンを殺せ』上映&トーク

日時:11月27日(火)19時~

場所:インスティトゥト・セルバンテス東京のオーディトリアム

詳細:記念上映&映画上映

 

 

本年はメキシコの著名作家ホルヘ・イバルグエンゴイティアの没後35周年、生誕90周年を迎えます。

 

これを記念し、同作家の代表作『ライオンを殺せ(スペイン語題:Maten al león)』の訳本が水声社から出版されます。

インスティトゥト・セルバンテス東京はこの機にメキシコ大使館の協力の

もと、同作品を原作とした映画『ライオンを殺せ』を日本語字幕付きで上

映します。上映後にはグレゴリー・サンブラーノ教授と翻訳を手がけた寺

尾隆吉氏のトークが予定されています。

 

 

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2018年

10月

19日

報告会

明日(10月20日)、東京大学本郷キャンパスで自分の書いた博士論文についての報告をおこないます。

 

報告タイトル:

『理知のむこう――ダニイル・ハルムスの手法と詩学』を書かせたもの、ひと、こと――石橋良生、偶然、21世紀の言語

 

石橋さんはハルムスに関する見事な研究論文を書かれた研究者。21世紀の言語というのは、ハンガリーの作家エステルハージ・ペーテルの講演のタイトルから採っています。

 

博論は1年以上前に書いたものですし、今年の6月にもやはり博論についての報告をおこなっていますので、今回はがらりと視点を変えて、「書かれたもの」ではなく、「書かせたもの」について喋ることにしました。

 

今回発表することは1年前から分かっていたことなので、その当時は、博論を書いているときの自分と書きおえて1年経った自分とがいかに違うかということを喋るつもりでいたのですが、色々あり、思うことも色々あり、今回のようなテーマを選びました。

 

2018年

8月

05日

集客について

今年に入ってから、ハルムス研究を標榜するこのサイトにハルムス関連以外のトピックを積極的に載せるようになりました。海外文学の読書案内や、現代日本文学のレビューなどがそうです。

 

理由はいくつかあるのですが、中でも大きなものは、私がこのサイトの集客を意識するようになったことです。

 

ハルムスに関する知の集積と開示というサイト開設当初の目標は概ね達成されたと考えています。すでに何年も前から、ハルムスやオベリウに関心のある学生たちがここを訪れ、気になる記事を読んでくれているようです(批判的に読んでいる場合もあるでしょうが)。

 

それは大変ありがたいことです。

ただ一方で、当然ながら、もともとハルムスに関心のある人しかこのサイトを訪れてくれません。そこで、ハルムスやオベリウを普及させる、ということを考えるようになりました。

その新たな目標を達成するための試みとして、今年から、ハルムスとは関係しないトピックを積極的に掲載するようにしています。

海外文学の読書案内と現代日本文学のレビューはその典型例です。

また、ドン・デリーロの短編や『ポプテピピック』を紹介した背景には、ハルムスと本来は関係しないはずの作品を取りあげ、ハルムスと比較することで、ハルムスにも関心をもってもらおうという(姑息かもしれない)魂胆がありました。もちろん、これらを強引に結びつけたつもりはなく、そもそも関連に気づいたからこそ紹介したというのが本当のところです。

 

そういうわけで、非常にほそぼそとした些細な試みではありますが、ハルムス/オベリウ普及のきっかけになればいいと思っています。

 

※ところで、できれば近いうちに、ヴァーギノフのとある長編のごく一部を訳出して掲載する予定です。しばらくお待ちくださいませ。

 

2018年

6月

15日

発表・授業

6月初旬に学会発表があり、昨年度提出した博士論文について発表をおこないました。

また、つい先日には、昨年に引き続き、神奈川大学の日本文学の授業にて特別講義(川端康成『伊豆の踊子』について)を担当させていただきました。

実は今年の4月から他大学で非常勤講師に就くことができたのですが、自分の専門からいって、日本文学の講義をさせていただく機会は非常に貴重ですので、大変ありがたかったです。松本先生、どうもありがとうございました。そして、畑違いの自分の話を聞いてくださった学生の皆さんも、どうもありがとうございました。

 

(6月17日追記)

 ちなみに、エコクリティシズムという枠組みを用いて『伊豆の踊子』について考える授業をおこないました。この枠組み(分析方法)については色々思うところがありますが、小説を改めて精読することで、自分のなかでも発見があり、こうして発見のあったことが大変うれしかったです。

 

2018年

1月

01日

新年

 

明けましておめでとうございます。

2017年にはハルムスをテーマとした博士論文を東京大学に提出し、無事、博士号(文学)を取得できました。

1年半ほどの間ずっと論文を書きつづけていたので、書きあげた際には、達成感というか、むしろ、これで終わってしまうのだという寂しさのようなものに襲われましたが、博士号の取得にはそれほど感慨はありませんでした。

実際、博士号取得についてほとんど人に報告していません(論文を書き終えたときには10名くらいの人にメールやLINEしましたが)。ですので、この場で報告することにしました。

 

また、2017年はライターの仕事を通して色々な感情を味わいました。自分はもっぱらamazarashiと新海誠関連のことだけを書くので、それほど多くの記事に携わったわけではないのですが、一つ一つの経験が非常に濃密で、そのそれぞれにつき、良いこと/感情から悪いこと/感情までの振り幅が大きく、その意味で充実していました。

 

こうしてふり返ると、総じてよい1年であったようにも思われますが、実のところは停滞ぎみだと感じていました。おそらくそれは、去年おこなったことのほとんどが一昨年の延長にすぎなかったからだと思います。新しく何事かを始められたわけではないので、同じところを螺旋状に走り回っている気がしてしまったのではないかと。

 

そこで今年は、新たな展開を期待しています。自分の独力で何かを起こすことは難しいでしょうが、少なくとも起点になるのは自分ですので、あまり尻込みせずに行動してゆきたいと思っています。

 

2017年

11月

11日

映画『ハルムス』

11月2日、ロシアで映画『ハルムス』が公開されました。

予告編

 

ハルムスの日記や手紙をもとにした伝記映画だそうですが、予告編を見るかぎり、彼の書いた詩や小説も映画のなかにふんだんに盛りこまれているようです。

監督はイワン・ボロトニコフ、脚本はボロトニコフとセルゲイ・ソロヴィヨフ。二人とも有名な作家ユーリー・トリーフォノフの教え子だそうです。

(余談ですが、トリーフォノフの小説『その時、その所』と『彼女の人生』はどちらも邦訳があります。随分昔に読んだので、内容はもう忘れてしまっていますが、『その時、その所』はわりと好きでした。)

 

ハルムスを演じるのはヴォイツェフ・ウルバニスキ、その最初の妻であり、ハルムスにとって「ファム・ファタール(運命の女)」になったエステルを演じるのはユスチナ・ヴォンシチク。どちらもポーランド人だそうです。

 

ロシア以外の国、イギリスやマケドニア、トルコなどでも公開されることが決まっているようです。日本でも公開されるといいのですが…。

今年12月にはモスクワで初となる宮崎駿展が開催されるということもあり、ロシアに行けたらいいのですが、残念ながら難しいといわざるをえません。

 

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先月末に神奈川大学でおこなった講義は、無事に終えることができました。聴講してくださった学生の皆さん、ありがとうございました。

 

2017年

10月

23日

神奈川大学でのゲスト講義

 

10月30日、神奈川大学にてゲストスピーカーとして講義を2コマ担当させていただくことになりました。

どちらも日本近代文学がご専門の松本和也先生の授業時間を使っておこなうもので、私の講義でも日本文学を扱います。

 

1限では芥川龍之介について、3限では村上春樹について、お話するつもりでいます。

 

後者の時間帯では文学以外のことも扱って構わないとのことでしたので、村上春樹が日本文化に与えた影響の例として、アニメーション映画監督の新海誠に注目したいと思っています。

 

2017年

4月

16日

「別の仕事」:amazarashiの秋田ひろむへのインタビューや新海誠関連の記事

「別の仕事」というコンテンツを新設しました。

 

去年の秋頃から、私はロシア文学以外の分野でも仕事をしています。amazarashiというロックバンドのボーカル・秋田ひろむ氏にインタビューをおこなったり、アニメーション映画監督の新海誠氏について記事を書いたりしています。

 

ご興味のある方はご覧くださいませ。

2017年

2月

12日

『エリザヴェータ・バム』の歌

★コラム2★というコーナーを作りました。

その第1回として、「ブリバール」というロックバンドの歌「エリザヴェータ・バム」のMVを紹介しています。これは、ハルムスの戯曲をモチーフにしている歌です。

日本語訳も掲げているので、ぜひお楽しみください。

2017年

1月

01日

2017年書初め

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

今年も無事に新年にHPを更新することができました。「作家クラブにおける1939年2月19日のエミール・ギレリスのコンサート」というハルムスの音楽論を翻訳して掲載しました。

彼の書いたもののなかでは、かなり真面目な内容です。

もともと、ハルムスと音楽、というのは非常に興味深い題材で、五線譜に文章を載せているような、実験的なテキストも彼は書いているほどです。

 

いろいろと勉強不足の点も多いですが、自分の関心に応じてぼちぼち調べてゆきますので、今後もHPの更新を気長にお待ちいただければ幸いです。

 

2016年

11月

14日

ハルムスの言葉

ハルムスの言葉」のなかの「手帖」に「天才について」と「ぼくの好きな作家」という項目を追加しました。

また、「日記」には「1932年11月22日(火)」のつづきを新たに訳出しました(この日の日記では、数日分の出来事が一日ごとに書かれてあるのです)。

 

それから、「ハルムスについて」や「ハルムスを取り巻く詩人たち」に載せている文章を全面的に改めました。といっても、内容に関する変更ではなく、表記(漢字をひらがなへ、など)を改めた程度です。

 

この一年、文章の書き方を根本的に改めているので、昔の文章がどうにも気に食わなくなってきています。これからも少しずつ手を入れてゆくかもしれません…。

 

2016年

11月

08日

日本語文献の追加

日本語文献表にいくつかのタイトルを追加しました。

 

武田昭文『アカデミヤ・ザーウミの詩人たち』

鈴木正美『どこにもない言葉を求めて』

沼野恭子『夢のありか』

 

この3つです。いずれもハルムスについての言及はほとんどない(または全くない)ですが、現代の詩人や作家たちを紹介するなかでオベリウに触れています。

これまでは、ハルムスやオベリウの面々を中心的に取りあげた書籍や論考だけを「日本語文献」に挙げていましたが、上記3つのようなテキストも加えることにしました。

こういう「グレーゾーン」のテキストや、あるいは限りなく黒に近いテキストもあるにはあるので、今後も追加することがあるかもしれません。

(私の知らないものもあると思いますので、情報をお寄せくださるとうれしいです。)

 

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先日の研究報告会では、「物語」を軸に発表しました。

いろいろな制約があったため(時間や私の能力など)「物語」の肯定的な側面・役割について説明することができませんでしたが、私は基本的には(というより全面的に?)「物語」の役割と物語そのものを肯定しています。

プレゼンに趣向を凝らしすぎたせいで、伝えるべき内容がきちんと伝わっていないとなれば本末転倒ですので、PowerPoint等のツールを用いた発表は難しいですね。

 

また、この報告で言及したハルムスの音楽評はすでに全文訳してあるので、ひょっとしたら近いうちにアップするかもしれません(アップしていないのは、実は純粋に技術的な理由)。

 

最近、ライターとしてJ-ROCKの音楽評やライブ・レポートを書かせてもらったりしていて(自他ともに認めるエモさの)、急に音楽づいています…

 

 

2016年

10月

28日

学会等での報告

去る10月22日(土)、日本ロシア文学会で報告をしました(於:北海道大学)。タイトルは「魔法使いの弟子:ハルムス作品における未来派の形象です。

その報告要旨や読み上げ用原稿をアップしようかと思ったのですが、そうしてよいものかどうか分からないので、(少なくとも)今日はタイトルだけを記しておきます。

 

来る11月5日(土)、今度は東京大学(本郷キャンパス・法文2号館1番大教室)で報告をします。タイトルは「ダニイル・ハルムスの間違った世界」

すでに告知されているので、リンクを貼っておこうと思ったのですが、いまなぜかHPにエラー表示が出ており、アクセスできない状態になっているため、やはり(少なくとも)今日のところはタイトルだけを記しておきます。

 

どちらも司会(コメンテーター)は早稲田大学の八木先生にお願いすることになりました。

11月5日は、6人が報告し、最後に詩人/作家の蜂飼耳氏の講演がおこなわれることになっています。たしか13時半開始で、私の番は15時頃だったように記憶しています(うろおぼえ)。

一般公開のセミナーのようなものですので、蜂飼さんのファンの方はもちろん、文学全般にご興味がおありの方は、ぜひお越しくださいませ。

 

私もいま蜂飼さんの本を読みはじめました。

 

 付記:私の報告は15時40分開始でした。

チラシpdf

 

2016年

6月

28日

カヴェーリン、尋問調書

ハルムスが逮捕された際の尋問調書を訳出しました(「ハルムスの言葉」)。

逮捕されたにもかかわらず、自分のスタイルを貫くハルムスの言葉に驚かされます。

 

また、もう随分前になりますが、同じく「ハルムスの言葉」のなかに、ハルムスが構想したと思しき世界文学アンソロジーのリストを訳出しました。そこにカヴェーリンという小説家の名前が出てくるのですが、その点に関して、少し解説しています。

 

2016年

3月

12日

★印:おすすめの翻訳作品

「ハルムスの作品」と「オベリウの作品」のページに載っている作品のいくつかに、印をつけました。

 

現時点で最も自信をもってお勧めできる翻訳に、このマークをつけています。いまのところ、ハルムス『エリザヴェータ・バム』と『外のトラ』、ヴヴェジェンスキー『イワーノフ家のクリスマス』だけですが、今後はこのマークの数が増えるよう、精進したいと思っています。

 

もちろん、ほかの作品がいい加減な翻訳であるという意味ではなく、これら三作品は特に念を入れて訳出作業をした、ということです。

 

ただし、『グヴィドン』と『気狂い狼』に関しては、間違いが多いかもしれない、という危惧があります。もともと自分用に訳していた、というのもありますが、分量が多いわりに見直しする時間をほとんど取っていなかったからです。

これらについては、より翻訳の精度を高め、より日本語を彫琢して、いずれ改めて提供し直したいと思っています。

気長にお待ちいただければ幸いです。

 

2016年

1月

02日

ハルムスの言葉

左横のバーに新しいコンテンツ「ハルムスの言葉」を追加しました。

 

ハルムスの手帖や日記をランダムに訳出しようと思います。とりあえず、日記からは随分前に訳したものの放置していた部分を、手帖からはオベリウが活動していた時期(1928年)のものを僅かながら紹介しました。

 

ときどき気の向いたときにでもこれらを更新してゆきたいと思っています。

 

 

2016年

1月

01日

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

早速ですが、「ハルムスの作品」コーナーに「マルシャークへの手紙(1940年3月25日)」を追加しました。

 

ハルムスからマルシャークに宛てたこの手紙は2012年にロシアで初めて活字になったものですから、やや珍しいテキストです。

 

ハルムスは児童文学作家のマルシャークと親交があり、彼の勧めで児童文学雑誌に詩や小説を書いていました。生活に困窮していたハルムスにとって、仕事をもらうということはとても大きな意味がありました。

 

マルシャークの戯曲『森は生きている』は日本でもとても人気があり、今でも劇場でそのお芝居を観ることができます。なお、この戯曲については、「ロシア文学めぐり」で詳述しましたので、ご興味のある方はそちらも併せてお読みください(ただし、やや専門的な内容を含んでいます)。

 

こちらの「更新情報/ブログ」にはいちいち記していませんが、新しい作品を訳して載せたり、あるいは訳文を修正したりすることがあります。更新がないように見えましても、ときどき目を通していただければ幸いです。

 

2015年

8月

17日

オレイニコフ

オレイニコフの詩『ゴキブリ』を訳出しました。


また、webマガジンで連載している(していた)記事にリンクを貼りました。ハルムスなどオベリウの面々について言及している記事もあるので、ご興味のある方にお読みいただけたらうれしいです。

「ハルムスを読もう!」

「ロシア文学めぐり」


2015年

7月

14日

破壊するもの

破壊するもの」というコンテンツを設けました。

オベリウを攻撃し、それが崩壊するきっかけとなった記事を翻訳しています。

近いうちに簡単な解説文を付ける予定です。

2015年

7月

11日

エリザヴェータ・バム

ハルムスの代表作『エリザヴェータ・バム』を訳出しました。「舞台」のバリアントは本邦初訳。

 

また、「コラム」欄の「『エリザヴェータ・バム』を求めて」に情報を加筆しました。

2015年

5月

09日

ヴヴェジェンスキー『イワーノフ家のクリスマス』

ヴヴェジェンスキーの代表作『イワーノフ家のクリスマス』を訳出しました。

「オベリウの作品」というコーナーからご覧いただけます。