スターリン時代を描いた小説について (Романы о сталинской эпохе)

 

先日、グロスマン『人生と運命』を読み終えました。手に取ることは一生ないと思っていた大長篇ですが、機会があったので読んでみました。

 

スターリン時代を描いた歴史的な傑作として非常に高く評価されていますが、個人的にはおもしろくなかった。特に第1部は読むのが辛すぎて、猪の皮をかぶった少年が登場する漫画以外は金輪際もう何も読むまいと本気で思っていました。

 

とにかく固有名詞が多く、物語はパッチワーク状で、多数の場面が並行して描かれるため、登場人物の関係性が皆目分からない。

 

400ページ目くらいに出てきた人物が、4ページ目くらいに一度だけ言及された人物と同じだと気づける読者が一体どれだけいるでしょうか。相当注意深い読者でさえ難しいのではないでしょうか。ぼくが気づけたのは、ほとんど偶然のようなものです。

 

この難解さにはちゃんとした理由があります。

実は『人生と運命』はグロスマンの巨大な構想の後編を成しており、前編『正義の事業のために』を読まずにいきなり後編を読んでも、理解できない箇所が多々あるのは当然というわけです。

 

現代物理学とファシズムには通底する論理(確率の論理)がある、という指摘は興味深かったです。が、その箇所を丹念に読んでみると、どうも記述がゆるいと感じられてしまう。指摘そのものはおもしろいのに、具体的な論証が物足りない。というかぎこちない。

 

同様のことは小説全体についても言えて、だからこの小説を一種のコンセプチュアル小説のように感じてしまう(コンセプトは壮大だが実態が伴わないという意味で)。

 

前編を読んでいない自分が『人生と運命』を正しく評価することは固よりできませんが、少なくとも後編についていえば、あまり良い印象は持てませんでした。

 

やはりスターリン時代を描き、やはり多数の場面を並行させ、やはり出版をなかなか許可されなかった『アルバート街の子供たち』(ルィバコフ著)のほうが、圧倒的に優れていると思います。訳もこなれていて、読みやすいし。

 

 

せっかくなので、『人生と運命』と同じく独ソ戦を背景にした、『卵をめぐる祖父の戦争』についても少し。

これは、デイヴィッド・ベニオフというアメリカの脚本家・作家の小説です。彼はかなり著名な映画人のようですが、小説も舌を巻くほど上手い。戦争の不条理がこれ以上ないほどの馬鹿馬鹿しさと残酷さで余すところなく描かれ、友情と愛情に満ち、笑い声が響いている。傑作といえるかもしれません。

 

ただ、上手すぎる、おもしろすぎるきらいもある。いわば、あざと上手い、あざとおもしろい。

 

こういう感覚がどうして生じるか考えてみると、ひとつひとつのエピソードが小説全体で果たしている役割があまりに明確だからではないか、と思い当たりました。すべてがきちんと収まるべきところに収まっており、余剰部分がない。また、小説のなかで描かれる感情や、読んで得られる感情もあまりに明白で、容易に言葉にできてしまう。

 

これは「不条理感」を出すために考案されたエピソードだ、これは「悲しみ」を描いており、いま自分が感じているのは「悲しみ」だ、等々。だから、作為性、要するにあざとさを感じてしまうのではないか?

 

すべて上手く設計されているけれど、見たことのない照明、階段、手すり、思いがけない所から臨める景色、名状しがたい雑貨には出会えなかった――読み終えて数日経つと、そういう感慨を抱きます。

 

まあこれは個人的な趣味の問題です。ない物ねだりかもしれません。読んでいるときは大変おもしろかったです。おすすめ。

 

参考)

『卵をめぐる祖父の戦争』レビュー(ハッピーエンド急行)

大変すばらしいレビューです。この小説がどんなにおもしろいか知りたい方は、このレビューを参考にされると良いと思います。

 

ところで、『卵をめぐる祖父の戦争』は、『攻防900日』(ソールズベリー著)を資料として挙げています。主人公たちが出くわすレニングラードの食人鬼のエピソードは、この本から採られたものでしょう。独ソ戦の最中、レニングラードはドイツ軍によって封鎖され、人びとは飢餓に苦しんでいました。

 

『攻防900日』にはハルムスが登場します。ぼくはかつて風間賢二の本でこの事実を知りました。実際に自分で読んでみると、ハルムスだけでなくオレイニコフも登場していました。ちょっとだけですが。