武装解除、あるいは内言と外言の融解 Disarmament of the Heart

 

『僕の心のヤバイやつ』第10話「僕らはゆっくり歩いた」に、非常に印象深いシーンがありました。市川の内言と外言の区別が消失するシーンです。

 

内言と外言は心理学者ヴィゴツキーの用語です。ここでは、内言は「心の中で言った言葉」、外言は「声に出して発せられた言葉」と理解していただいて構いません。以前ヴィゴツキーの本を読んだとき、随分便利な用語だなと感心したことがあり、門外漢なので自己流に、ちょっと使ってみることにします。

 

市川京太郎と山田杏奈が渋谷の夕闇を歩いている。山田が市川に、ごめんねと謝る。自分の行きたいところばかり連れ回したから、疲れちゃったよね、と。それに対し、市川は市川で「僕は自分のことばかり気にしていた」と内言し、こう外言する。「山田は僕のことをわかってないよな」。「僕はお人好しじゃない。嫌なことは嫌だと言う。そんな人間なんだ」。「だから、要するに、楽しかった……んだと思う」。

 

「僕は自分のことばかり気にしていた」という内言から、「山田は僕のことをわかってないよな」という外言までの流れが非常にスムーズで、後者が内言の続きなのか外言に切り替わったのか、アニメを視聴していて戸惑うのです。

 

漫画では、周知のように、内言と外言は明確に区別されます。おそらく少女漫画の開拓した表現技法のひとつだと思いますが、内言は四角(□)で囲まれ、外言はふきだし(💭)で表されます。ところがアニメでは、こういう視覚的手法を用いることができないため、声優の演技等の別の手法に頼るほかありません。では、ここで内言と外言の区別があいまいなのは、声優の演技がよくなかったためか? 違う。むしろ逆です。意図的にあいまいにしている。

 

なぜなら、このとき初めて市川は「僕」という単語を外言の中で使用しているからです。つまり、内言と外言が融解しているからです。いつも内言の中でしか用いられてこなかった「僕」が外言として用いられているからこそ、ぼくはこれが内言なのか外言なのかわからず、戸惑ったのだと思います(ちなみに第4話に、「僕」と言いそうになった市川が慌てて「俺」と言い直す描写があります)。そのことにすぐ気づけたのは、山田がこう返したからです。「わかる。だって「僕」って言った。自分のこと。普段はそうなの?」と。山田は市川の「僕」に逸早く気づき、「楽しかった」という言葉が市川の本心だと正しく理解します。

 

内言と外言の融解は、このシーンでは、市川の心がさらけ出されるのとほとんど同義です。別の言葉を使うなら、心にまとった鎧が武装解除されること。第12話に、「本当はさらけ出したいと思っているんじゃないのか?心を」という台詞(イマジナリー京太郎!)と、「鎧」という言葉が出てきます。ここで言う「鎧」とは、具体的には、『殺人の人文学』という人を遠ざける書籍のこと。抽象的には、前もって準備していた言い訳のこと。つまり、他者になじめない自分を正当化するための、自分の傷つきやすい心を守るための言い訳のことです。

 

第10話で無自覚に心を武装解除した市川は、第12話で初めて意識的に、みずから進んで鎧を脱ぎ、山田に自分の心をさらけ出します。そして、こんなふうに自分を変えてくれた山田に「ありがとう」と感謝を告げる。すると山田は、それは市川自身の行動の結果だと返す。山田と交流したから市川の心がほどけたのか、市川の心がほどけたから山田と交流するようになったのか。両人にとっては両方とも真実なのだと思います。

 

ところで第7話に、山田が走る市川の顔をじっと見て、「右目、初めて見た」と言って笑うシーンがあります。いつもは隠れている右目があらわになるシーンなのですが、改めてふり返ると、まるで市川の心に触れて喜んでいるかのようで、興味深い。第5話~第6話で、市川と山田がお互いの本心を探り、相手を気遣うシーンがいくつか見られることも、隠された右目=本心の置換を自然にしています。やっと本当の心が現れた、と山田がうれしがっているように感じられるのです。そして、この第7話あたりから、山田は積極的に市川にアプローチするようになります。

 

いずれにしろ、本作の切実なテーマが心の交流にこそあることを感じさせる、第10話と12話でした。桜井のりおの原作漫画(「Karte.44 僕らはLINEをやっている」)には、いみじくも、「色恋がどーのというより…心を通わせる描写…?がいい…」という市川自身の台詞があります。アニメでは第9話「僕は山田が嫌い」のラスト近くです。これは直接的には作中作『君色オクターブ』について言われた台詞ですが、『僕の心のヤバイやつ』という漫画/アニメの性格を見事に言い当てています。

 

実はこの台詞は、作中では、市川と山田の「好みや感性」が深いところで一致していることを示すギミックとして使用されています(山田は、自分の一番好きなシーンが市川も一番好きだと知る)。こういう丹念なディテールの積み重ねによって、本作が二人の心の交流を、触れ合いを、どれだけ丹念に描こうとしているか、染み入るように伝わってくるのです。

 

追記(6月24日)

ヴィゴツキーを連想したのは、この最後に挙げたシーンの市川の台詞がきっかけでした。アニメで市川が言及しているのは、『君色オクターブ』の登場人物たちが、「ノートの隅でやり取りするところ」です。

 

一方、ヴィゴツキーの本の中では、トルストイ『アンナ・カレーニナ』が分析されています。その分析箇所というのが、登場人物たちが紙に断片的な言葉を書き、そのやり取りだけで心を通わせるシーンなのです。

 

もちろん、作中作『君色オクターブ』は読んだことがありませんので、それが実際にどのような描写なのか詳しくはわかりません。が、ふと『アンナ・カレーニナ』における描写を連想し、そこからさらにヴィゴツキーの本が思い出されたのでした。だから、市川の心の声と実際の声とが溶け合ったとき、ヴィゴツキーの内言と外言を想起したのは、自分にとってとても自然なことだったのです。