Column1)   第3回 オベリウ宣言を書いたのは誰?

 

「オベリウ宣言を書いたのは誰か?」――これは、日本固有の問題といってもいいかもしれません。オベリウのメンバーだったバーフテレフがその回想録のなかで明言しているにもかかわらず(『ザボロツキーをめぐる回想』に収録)、日本ではオベリウ宣言を書いた人物について誤った情報が流布していたからです。

 

亀山郁夫・大石雅彦編『ロシア・アヴァンギャルド5 ポエジア 言葉の復活』(国書刊行会、1995年)における「オベリウーの宣言」に付された注釈には、宣言の執筆者としてハルムス、ザボロツキー、ラズモフスキーの名前が挙げられています。ところが、これはバーフテレフの回想している人物と一致しません。

 

彼の回想によれば、導入部分と「オベリウ派の詩」を書いたのはザボロツキー、「オベリウの演劇」を書いたのはレーヴィンとバーフテレフ、「新たな映画への道で」を書いたのはラズモフスキーです。メイラフやジャッカール、そしてハルムスの大部の伝記を書いたシュビンスキーもこの部分の回想を信頼しています。

 

もっとも、コブリンスキーは『ダニイル・ハルムス』のなかで、「新たな映画への道で」の執筆者にラズモフスキーのほかにミンツも加えていますが、これはケアレスミスでしょう。ラズモフスキーとミンツはどちらも国立芸術史研究所の映画科の学生であり、オベリウが「左翼の三時間」という夕べを開くに当たっておこなった募集に応じ、新参者として参加しました。彼らが「左翼の三時間」で映画を上映することを提案したといわれます。つまり二人はセットで考えられているわけです。

 

いずれにせよ、ここで重要なのは、執筆者リストにハルムスが含まれていないということです。そして、宣言のなかで特に肝とされる部分はザボロツキーが執筆しているということです。

 

ザボロツキーは1928年秋にかけてオベリウとの関係を断つようになります。それどころか、「左翼の三時間」の前夜にはすでに両者の関係は険悪なものになっていたといわれます。このような事情から、オベリウ宣言というものは、ザボロツキーの詩学を表明したものであって、ハルムスのそれとは無関係である、あるいは少なくとも関係は限定的である、と主張する研究者が現れはじめるのです。

 

もっとも、どうしてザボロツキーが重要な箇所を執筆したのか、そもそも彼がオベリウに所属した理由は何なのか、いやオベリウのメンバーたちは彼を信頼して自分たちのグループの詩学を表明することを託したのではないか――そういう疑問は当然発生するでしょう。しかしそれらにはまだ定説がありません。それを解き明かすのは、これからの世代の研究者たちでしょう。

 

 

(2013・2・28)

 

 

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