Column2   第4回「ポプテピピックは21世紀のハルムスか?」

――リメイクしに、と彼女は言う。

 

 TVアニメ『ポプテピピック』がダニイル・ハルムスの創作に似ているという意見を耳にします。実際に比較してみました。

 

ポプテピピック

 2018年1-3月期のTVアニメで最も話題になったのは、おそらく青木純・梅木葵監督『ポプテピピック』でしょう。大川ぶくぶの同名の漫画を原作としたこの作品は基本的にはパロディを主体としたギャグアニメですが、その過激さと徹底ぶりは他に類をみません。

 たとえば、第1話では新海誠監督『君の名は。』、宮崎駿監督『となりのトトロ』、ゲームの『クロノトリガー』などの有名作品が容赦なくパロディにされ、その後もアニメやゲームを中心に膨大な作品がネタとして消費されました。また、第10話では探偵ドラマというジャンルそのものがパロディにされています。

 

 こうしたパロディ性は主題歌『POP TEAM EPIC』のなかで上坂すみれが「世界をリメイク」と歌うことによって自己言及されています。まさしく旧知の世界をリメイクする=パロディにすること、すなわち世界の書き換えこそが作品の主眼であると宣言しているかのようです。

 しかし、『ポプテピピック』のパロディは広範な作品をネタにするだけにとどまりません。驚くべきことに、パロディの対象は『ポプテピピック』自身にも及んでおり、それこそがこのアニメの異質性を際立たせているのです。

 

『ポプテピピック』はCMをはさんで「前半」と「後半」に大きく分けることができます。この二つは基本的に同内容(!)ですが、主要登場人物であるポプ子とピピ美の声優が交代しています。その結果、一方が他方のパロディになっているとみなすことができるのです。

 また、番組内に随時挿入されるミニ・コーナー「ボブネミミッミ」は『ポプテピピック』の劣化版として機能していると考えられます(逆にいえば、『ポプテピピック』は「ボブネミミッミ」の優良版です)。

 

 注意したいのは、『ポプテピピック』内でおこなわれる“自家パロディ”にはそもそもオリジナルがなく(何しろこの作品は他のパロディによって織りあげられているのです)、どちらがどちらのパロディなのかが判然としないという点です。ここにあるのはオリジナルなきコピーの無限増殖であり、ひたすら新しく更新しつづける運動だといえるでしょう。

 

エヴァンゲリオン

 自分の作るアニメがパロディに他ならないという自覚をもっていた人物として有名なのが『エヴァンゲリオン』シリーズの庵野秀明監督です。1997年に彼はそのエヴァについて「今までのマンガや特撮もの、アニメをコピーした」ものだと述べています(『スキゾ・エヴァンゲリオン』)。

 また、こうも述べています。「僕らの世代のヒーローは“とんねるず”なんです。“とんねるず”のやっていることは昔のパロディみたいなもんでしょう」(同前書)。アニメ・特撮研究家の氷川竜介氏の言葉を借りれば、ヱヴァンゲリヲン新劇場版がいみじくもTV版の「REBUILD」=再構築となっていることも付け加えておくべきでしょう(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 パンフレット』)。

 

 その意味で『ポプテピピック』は庵野秀明の問題意識を受け継いでいるといってよいと思います(最終話がエヴァのパロディだったのは示唆的です)。もっとも、彼がそれでも「ただのコピーではない」作品を作ろうとして「自分の魂をこめ」たというのに対し(『スキゾ・エヴァンゲリオン』)、『ポプテピピック』はむしろただのコピーであることに徹し、「クソアニメ」を自称することで、逆説的に独自の魂がこもってしまったといえるかもしれません。

 

『ポプテピピック』の監督・青木純氏はもともと『コタツネコ』等の短編アニメーション制作から出発しているためか、作中には短編アニメーション特有の自由さが漂っているように感じます。

 しかしこの点については措き、そろそろハルムスとの比較に話を進めなければなりません。(ちなみにハルムスとアニメーション全般との親和性の高さについては、連載「ハルムスを読もう!」第7回「奇術師ハルムス」をご覧ください。)

 

◆『コタツネコ』 

 

ハルムス

『ポプテピピック』に登場するポプ子とピピ美のアイデンティティ(の希薄さ)に着目した次のブログは、このアニメとハルムスとの類似性を考える際のヒントになります(特に後半が参考になります)。

 

「ポプ子」と「ピピ美」という主人公が設定されているにもかかわらず、ビジュアルと暴力的な性質以外のキャラクター性はほぼ存在しておらず、彼女らを演じる声優すら毎回変わってしまう。

(「カプリスのかたちをしたアラベスク」より)

 

『ポプテピピック』の二人の主人公はそのアイデンティティを稀釈されており、彼女たちは「キャラクターではなく象徴」であると、ブログの著者である小説家・大滝瓶太氏は述べています。より正確に「記号化されたキャラクター」ともそれは言い換えられていますが、まさにこの点において、ポプ子とピピ美はハルムスの「キャラクター」を強く喚起します。

 

 1930年代半ば以降のハルムスはポプ子とピピ美のような人物を大量生産しました。代表的な例が連作『出来事』中の一篇「プーシキンとゴーゴリ」です。

 

ゴーゴリ (幕から転がり出て、舞台上でじっと横になっている)

プーシキン (舞台に登場し、ゴーゴリにつまずいて転ぶ)

「くそっ! ゴーゴリじゃないか!」

ゴーゴリ (立ち上がりながら)

「やな感じ! ゆっくりしていられないんだから」

(歩き始めるが、プーシキンにつまずいて転ぶ)

「プーシキンにつまずいたじゃないか!」

プーシキン (立ち上がりながら)

「少しもゆっくりしていられないんだから!」

(歩き始めるが、ゴーゴリにつまずいて転ぶ)

「くそっ! またゴーゴリじゃないか!」

ゴーゴリ (立ち上がりながら)

「いつも邪魔ばっかりするんだから!」

(歩き始めるが、プーシキンにつまずいて転ぶ)

「ほんとにやな感じ! またプーシキンじゃないか!」

プーシキン (立ち上がりながら)

「ちくしょうめ! こんちくしょうめ!」

(歩き始めるが、ゴーゴリにつまずいて転ぶ)

「くそ! またゴーゴリ!」

ゴーゴリ (立ち上がりながら)

「いつも馬鹿にするんだから!」

(歩き始めるが、プーシキンにつまずいて転ぶ)

「またプーシキン!」

プーシキン (立ち上がりながら)

「くそっ! ほんとにくそったれ!」

(歩き始めるが、ゴーゴリにつまずいて転ぶ)

「ゴーゴリだ!」

ゴーゴリ (立ち上がりながら)

「やな感じ!」

(歩き始めるが、プーシキンにつまずいて転ぶ)

「プーシキンだ!」

プーシキン (立ち上がりながら)

「くそっ!」

(歩き始めるが、プーシキンにつまずいて転び、幕の向こう側へ倒れる)

「ゴーゴリだ!」

ゴーゴリ (立ち上がりながら)

「やな感じ!」

(幕の向こう側へ行く)

幕の向こう側からゴーゴリの声が聞こえる。「プーシキンだ!」

(『ハルムスの世界』より)

 

 プーシキンとゴーゴリはロシア文学の「母」と「父」に相当するような圧倒的に重要な作家なのですが、そんな二人が互いに罵り合ってつまずいてばかりいます。プーシキンないしゴーゴリに「つまずいて転ぶ」というモチーフは、二人の影響下から逃れられない現代の作家や読者を揶揄しているようにも取れますが、しかし短編全体を通して得られる最も強い印象は本来のアイデンティティを奪われたかにみえる二人の言動です。

 実際のゴーゴリはプーシキンから小説の題材をもらうなど、両者は互いに反目しあう間柄ではありませんし、そもそもここには「暴力的な性質以外のキャラクター性」は一切描きこまれていません。ハルムスはプーシキンを題材とした散文を他にもいくつか書いていますが、そこにもやはり歴史上のプーシキンとは別の、名前だけが同じ「プーシキン」を登場させています。

「プーシキンとゴーゴリ」の他にも『出来事』には「暴力的な性質以外のキャラクター性」をもたない人物の出てくる短編が多くあります(「マーシュキンはコーシュキンを殺した」「実に素晴らしい夏の一日のはじまり(シンフォニー)」など)。

 

 たとえ名前を入れ替えても気がつかないような、アイデンティティを喪失したキャラクターたちが登場するハルムスの散文は、実際に声優の入れ替わる『ポプテピピック』の世界と接点があるといえるでしょう。

 また、『ポプテピピック』における「世界をリメイク」しようとする志向性は、常識や慣習を手玉にとり、それを嘲弄することを通して世界を新たに把握しようとしたハルムスの志向性とも部分的に重なります。

 

 

 今回は両者の共通点だけを指摘しましたが、これを機に、たくさんの方々にハルムス作品に興味をもっていただければ幸いです。

 

2018年3月24日

(同年同月25日修正)

 

 

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