反動的な曲芸

 

反動的な曲芸

(文学のならず者共が打って出た、ある突撃について)

L・ニリヴィチ

*赤字は訳者注

 

 オベリウ派――彼らはそう名乗っている。この言葉は、リアルな芸術の結社のことだと理解されている。

 この嘘くさい大仰な名前は、レニングラードのちっぽけな詩人グループが勝手に詐称しているものである。連中の数はほんの僅かだ。片手で指折り数えることができる。その創作ときたら…。しかし、連中について語るということ、それは、オベリウ派のザーウミ的な [意味の分からぬ] スカスカな言葉に不当な名誉を与えるということである。連中は書くものが活字にならないし、ほとんどパフォーマンスをしない。自分たちの「芸術」とやらを大衆に向かって口にするなどということを突然思いつかなければ、彼らについて語る必要もなかったのだ。ところが連中は思いついてしまった。つい先日のことだが、オベリウ派は、レニングラード大学の学生寮でパフォーマンスを行ったのである。

 このパフォーマンスについて話をしよう。寮内の赤い部屋 [旧ソ連の政治・分化啓蒙施設のある部屋] の壁には、前もって「オベリウのポスター」が飾られていた。不審に思った学生らが読んでみると――

 「コーリャ氏は海へお出かけした」

 「独裁者がポニーを食べ終えた。一瞬はポに陥った。恐らく一瞬はポに陥った。いや罠に陥った。ランプをつかまえろ」

 「クワス [ロシアの清涼飲用水] の近くを昇降段が通った」

 「我々はピロシキに非ず」

 まだまだたくさんのスローガンがあったが、全てこんな調子であった。

 「それぞれどういう意味があるんですか? みなさんの綱領はどういったものなんですか?」登場したオベリウ派たちに学生らは真っ先に質問した。

 答えが返って来た。

 「私たちの朗読を聞けば、スローガンの意味は明らかになるでしょう。綱領に関しては言わないことにします――それは私たちの作品の中にありますから。朗読を始めます、それから討論会を開きましょう」

 しかしその作品は、スローガンにも増して要領を得ず、一層ザーウミ的[チンプンカンプン]であった。

 最初に朗読したのはレーヴィンである。彼が読んだのは、ありとあらゆる戯言が満載の短編であった。そこでは一人の男が二人に変わったり(「男が一人、女は二人。そのうち一人は奥さんで、もう一人は妻」)、人々が子牛に変わったりした。それ以外はサーカスの演し物であった。

 集まった学生らは不審に思いながらも、こういった馬鹿げたもの全てに耳を傾けていた。こういったものは全て、どこに向けられているのだろうか?

 この質問への回答として、オベリウの出演者が宣言する。

 「次は、有名なアレクセイ・アレクサンドロヴィチ・パストゥーホフが登場する番です」

 「紳士淑女の皆様! 私の腕前 [普通は芸術artという意味] を披露することができて、光栄であります」

 単なる手品師にしか見えない「有名なアレクセイ・アレクサンドロヴィチ・パストゥーホフ」とやらが始めたのは、決して魔法などではなく、ただ手を素早く動かしてみせることであった。ボールとハンカチを消してしまうというあの黴臭い手品をやったり、トランプを食べたり、コインを唾と一緒に吐き出したり、そういったことを披露した。要するに、「有名なパストゥーホフ」は三流手品師として申し分のないことが明らかになったわけである。オベリウ派が彼を引き入れたのは、自分たちの創作との調和を図るためではないか? オベリウ派は、文学における手品師であり詐欺師でもあるからだ。

 「詩人」ウラジーミロフのパフォーマンスは、パストゥーホフがやったことの続きみたいなものであった。

 これが彼の詩だ。

     「ピョートル・イワーヌィチは道に迷った、

     そのあと家に戻って結婚した。」

 あるいは、

     「彼はベンチの上に倒れ掛かった、

     そして横に寝そべった、

     彼は横に倒れた。」

 討論会が始まった。

 聴衆から万雷の拍手が鳴り響く中、出席者たち全員が、異口同音にオベリウ派に鋭い批判を浴びせた。強い憤りと共に、特に言われていたのは、プロレタリアートが社会主義建設の前線で粘り強い努力を続けている最中、極めて重要な階級闘争の最中にあって、オベリウ派が社会生活の外部、ソ連の社会的現実の外部にいるということである。この退屈な現実を遠ざけて、この遣り切れないような「政治」を避けて、文学という領域での野蛮な乱暴狼藉でもって、自己愛的な享楽に耽っているのだ!

 オベリウ派は建設に全く関与していない。プロレタリアートの行っている闘争を嫌悪している。生活からの逃走、無意味な詩、ザーウミ的な [内容空疎な] 曲芸――これらはプロレタリア独裁に対する抗議である。したがって、彼らの詩は反革命的なものである。これは異分子たちによる詩であり、階級の敵による詩である。――プロレタリアートの学生らはそう言明した。

 果たしてオベリウ派に反論の余地はあるだろうか?

 ウラジーミロフはとても真似できないような厚かましさで、集まった学生らのことを、迷い込んだヨーロッパの都市で自動車を目撃した野蛮人呼ばわりした。

 レーヴィンが言うには、自分たちは「今はまだ」(!)理解されていないものの、真に新しい芸術の唯一の代表者(!)であって、巨大な建造物を建設している最中だという。

 「誰のために建設しているのですか?」彼は質問を受けた。

 「全ロシアのためです」お決まりの答えが続いた。

 プロレタリアートの学生らは、この悪名高いオベリウ派の突撃に然るべき措置を取った。彼らは自分たちの見解をまとめ、それを作家同盟に送付するという決定を下したのである。

 ところで、作家同盟は何故このようなカス共を自分たちのメンバーに迎え入れているのだろうか。このような…オベリウ派共を? 作家同盟が連盟を組む相手は、ソビエトの作家ではないのか?

 

『交代』1930年4月9日