<イーゴリ・バーフテレフ略歴>

1920年代末のバーフテレフ。レニングラード。

 イーゴリ・ウラジーミロヴィチ・バーフテレフ(1908-1996)はサンクト・ペテルブルグの機械技師の家に生まれました。母親は法曹関係の活動に取り組んでいたといいます。

 

 芸術史研究所の芸術学コース演劇科に在籍中、バーフテレフは詩を書きはじめ、夕べが催されると、自作の詩を朗読していました。こうした夕べの一つで彼はハルムスと出会ったのです。1920年代半ばのことでした。ハルムスは彼の詩を高く評価し、ヴヴェジェンスキーやザボロツキーら自分たちの仲間に引き入れました。彼らは演劇集団「ラジクス」を結成、ハルムスとヴヴェジェンスキーの戯曲『ぼくのママは全身すっぽり時計の中』の上演が企画されます。しかしこれは実現しませんでした。

 

 1926年には文学グループ「左翼」に参加、翌1927年には「オベリウ」立ち上げ人の一人に名を連ねます。1928年1月24日に開催されたオベリウの夕べ「左翼の三時間」では、最初に壇上にあがったのはバーフテレフでした。彼は自分の詩を朗読しましたが、他にもこの日の舞台装飾を手がけていました。

 

 1930年、学業を終えると、バーフテレフの詩は児童向けの雑誌や新聞に掲載されるようになります。このころ彼はマルシャークやパンテレーエフらの知遇を得、またオベリウのメンバーの一人であるラズモフスキーと論文や紀行文、児童向けの本を共同で執筆していました。

 

 1931年12月14日、ハルムスやヴヴェジェンスキー、トゥファーノフらと同じ罪状(反革命的な創作及びその普及)でバーフテレフは逮捕され、投獄されてしまいますが、翌年には釈放されます。しかしレニングラードやモスクワに立ち入ることは禁じられていました。

 

流刑地から帰還したバーフテレフは再度ラズモフスキーと組み、1938年には戯曲『スヴォーロフ元帥』を書きあげます。この作品はスターリンに高く評価されました。こうして彼らには巨大な庇護者が現れることになったのです。ラズモフスキーとの共作には、他にも『倍ゲーム』(1951年)、『嵐の中の啓示』(1962年)等があります。二人の共作にはときに「ライトノフ」という筆名が用いられました。また、ニキーチンという作家とも共同で執筆することがあり、その際には「ブライトノフ」という筆名が用いられました。

バーフテレフの作品を公的には初めて掲載したソビエトの出版物『泉』(リガ、1987年)。写真はその中のバーフテレフ紹介記事「オベリウの最後の一人」。

 

 バーフテレフはオレイニコフ、ハルムス、ザボロツキー、アフマートワらの回想録を著しています。とりわけザボロツキーを追想した『ぼくらが若かった頃』は有名で、研究者からは非常によく引用されます。彼はオベリウの精神を生涯忘れず密かに詩作をつづけ、1970年代には「超未来派」の詩人たち(ロシア・アヴァンギャルドの研究家としても著名なセルゲイ・シゲイなど)と交流を深めます。1978年にはバーフテレフの詩が国外で初めて出版され、1980年以降は地下出版の雑誌に彼の作品が定期的に掲載されるようになります。彼の詩と散文がソビエト公式の出版物に初めて現れたのは、1987年のことでした。

 

 1996年2月20日、バーフテレフはペテルブルグでその長い生涯を閉じます。88歳でした。

 

 2013年には、上下二巻にわたる彼のオベリウ著作集がモスクワで発行されました。

 

★本頁の大部分は、ハルムス研究サイトのバーフテレフに関するページに基づいています。

 

(2015年1月1日)

イーゴリ・バーフテレフ『オベリウ著作集』モスクワ、2013年。
イーゴリ・バーフテレフ『オベリウ著作集』モスクワ、2013年。