<コンスタンチン・ヴァーギノフ略歴>

1920年代のヴァーギノフ
1920年代のヴァーギノフ

 コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ・ヴァーギノフ(1899-1934)はドイツ系の血をひく憲兵(コンスタンチン・ヴァッゲンハイム)の息子としてペテルブルグに生まれました。母親のリュボーフィは裕福な地主の娘で、ペテルブルグ市内にいくつも屋敷をもっていました。1908年から1917年まで、ヴァーギノフは民主的と名高いギムナジウムで教育をうけます。

 

 彼はこの頃すでに詩を書きはじめていました。そのきっかけはボードレール『悪の華』を読んだことだったといいます。当時のヴァーギノフの詩には、シンボリズムのプリズムを通して見られたペテルブルグのイメージが頻出しています。他にもエドガー・アラン・ポーを好んでいました。また、彼は太古の時代にも惹かれ、考古学的な関心から文学を研究したり、古い時代のコインを蒐集したりしていました。イギリスの有名な歴史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は子供時代からの愛読書で、過ぎ去るものに愛着があったといわれるイギリスの作家ウォルター・ペイターの著作もヴァーギノフに強い影響をおよぼしました。

 

 1915年、ロシア国内で高まっていた反ドイツ的な機運をうけ、ヴァッゲンハイム家は「ヴァーギノフ」へと名前を改めます。

ロシア革命の起きた1917年、ペトログラード大学法学部に入学したヴァーギノフは、1919年に赤軍に動員され、ウラルの先やポーランドの前線で戦争を経験しました。1920年(もしくは1921年初頭)に彼はペトログラードに帰還しますが、しかし非プロレタリアートの出自が災いして復学は許されませんでした。

 

 戦争で荒廃したペテルブルグの風景は、ヴァーギノフの目には古代ローマの廃墟と重なって見えました。その様子はヴァーギノフの長編小説『山羊の歌』のなかに描き込まれています。なお『山羊の歌』は2014年に河出書房新社から翻訳が出版されました(東海晃久訳)。

 

 当時ペテルブルグには様々な文学グループが生まれていました。「芸術の家」が開館し、そこでは「セラピオン兄弟」という若者たちの文学ループが創作をおこない、またグミリョフ(その死後はチュコフスキー)が「詩学の実践講座」を催したりしていました。ヴァーギノフもこの講座に通い、1921年夏にグミリョフの「詩人ギルド」に参加しています。もっとも、ヴァーギノフの詩は同時代人にとっては彼の見た夢のように思われており、「詩人ギルド」の枠内に収まる代物ではありませんでした。

 

 同じ頃、彼はヴォルコフやチーホノフ、コルバシエフと共に「島民」というグループを組織します。「セラピオン兄弟」と緊密に連携していた「島民」は、文学グループとしては珍しく大仰なマニフェストを掲げたりせず、様々な才能を結集させることを目指していました。

 

 1921年9月に「島民」は作品集を出版しました。わずか20部しか刷られなかったとはいえ、ここでヴァーギノフの詩が初めて活字になったのです。翌1922年の春にはタイポグラフィー作品集が出版され、再び詩が掲載されます。彼の詩は次第に色々な作品集に掲載されるようになり、注目を集めはじめます。たとえば、「セラピオン兄弟」の一人レフ・ルンツはヴァーギノフの詩をこう評しました。「ヴァーギノフの詩の一行一行には鋭利なものが感じられる。それはまだ才能を発揮できておらず、未熟ではあるのだが、しかし本物の詩的な鋭利さなのである」。

 

 1921-1922年に「フォファノフ名称詩人の環」に加入、1921年末には自身初の詩集『混沌への旅』が、1922年には散文集『我らがアポロン神の修道院』が出版されます。ヴァーギノフの作風は同時代人のどの文学流派とも似ていませんでしたが、その名前はレニングラードの文学サークルのあいだでは広く知られるようになります。グミリョフ、クズミン、マンデリシュタームなどの著名な詩人たちも彼の詩を高く評価しました。また、そのグロテスクな散文はゴーゴリやドストエフスキー、ベールイのペテルブルグ小説の系譜に連なり、さらにルネサンス小説や昔語、18世紀のペテン師小説といったものの影響を感じさせるといわれます。たとえば『バムボチャーダ』(1929-1930年)にはペテン師小説の一面があり、その点において、イリフとペトロフのペテン師小説『十二の椅子』(1927年)と比較することができるでしょう。

 

 1923-1927年までヴァーギノフは芸術史研究所の言語部門で学び、それと並行して絵画部門の講義も聴講していました。1924年には著名な批評家ミハイル・バフチンとも知り合いになっています。彼はヴァーギノフの創作におけるカーニバル性を極めて高く評価しました。

 

『ヴァーギノフ選集』モスクワ、2015年。

 1927年には「オベリウ」に参加します。しかしヴァーギノフの創作も振る舞いもアヴァンギャルド特有の雰囲気とは相容れませんでした。のちに長編小説『スヴィストーノフの仕事と日々』(1929年)のなかで、自身も参加したオベリウの夕べ「左翼の三時間」を皮肉な筆致で描写しています。

 

 その後も次々と詩や小説を執筆しつづけましたが、晩年は病に侵され(より若い頃にのめり込んだコカインの影響もあったかもしれません)、1934年4月26日、34歳でこの世を去りました。

 

(2015年1月2日)